抜粋です。


“地上人生を、物質的利益や富・名声を追求することだけに費やし、霊的成長が全くなされなかった人間は、死後その愚かな生き方をたいへん恥じ、後悔するようになります。

また自分の利益のために他人を騙し苦しめるといった悪行を犯した場合は、死後その罪を目の前に突きつけられるようになります。

そこから逃げることもできない中で拷問に似た苦しみを味わうことになるのです。
そうした苦しみは、すべて“自業自得”であり、自分が犯した罪の結果を、自ら招いているだけのことなのです。


利己性の強い人間や独裁者といった悪性の強い人間は、死後もなかなか反省に至ることができません。

しかしそうした人間でも、幽界における孤独と暗闇の境涯で耐えがたい苦しみを経験する中で、少しずつ地上時代の愚かさを自覚していくようになります。



また死後の生命の存続をかたくなに否定し続けた唯物論者は、死後、自分の死体のそばをさ迷い、混乱・錯乱状態の苦しみを体験することになります。


本人には、その苦しみがいつまでも続くように感じられ“自殺したい”と思うのですが、それもかないません。

ただ苦しむだけの状態がずっと続くのです。



また霊的なものを一切受け付けなかった傲慢な者は、死後、自分の考え方の間違いを皆の前で明らかにされることになり、恥ずかしさと屈辱を味わうようになります。

傲慢な人間にとって、屈辱は最大の苦しみなのです。

また地上人生を怠惰に過ごし、何ひとつ“善”を求めることがなかったような人間も、死後は幽界で、退屈で退屈で死ぬような辛さを味わうことになります。

何かをしなければならないような感情が湧いてきても、何をすべきかが分かりません。

あまりの退屈さに、“生きていても仕方がない、早く死んでしまいたい”と思うようになります。



また殺人者は、死後、殺人を犯した現場を繰り返し見せつけられます。

そして殺したはずの犠牲者と、何度も対面させられることになるのです。

以上述べてきたのは、地上人生を摂理に反して生きてきた人間の死後の状態です。

彼らに共通しているのは、耐えがたい苦しみが永遠に続くように思われることです。



そうした孤独と後悔の中で、永い永い時を過ごすようになります。実はこの苦しみの体験が、地上でつくったカルマを償うプロセスになっているのです。


死後の苦しみのパターンは、どのような摂理違反をしたのか、愚かな生き方をしたのかという内容によって異なります。


物質性が強かった者にはそれに関連した苦しみが、利己的な感情によって正しく生きることができなかった者には精神的な苦しみが、知性に恵まれながら利己的な生き方をした者には恥ずかしさや屈辱といった形での苦しみが与えられるようになります。


このように死後の苦しみの内容は、人それぞれに異なっています。


いずれの場合も死後、地上人生でつくった悪いカルマを“苦しみ”によって償っていることには変わりありません。



大半の人間は霊界に入ると、苦しみの中で「霊的自覚」を少しずつ芽生えさせるようになります。

地上人生の間違いを自覚し、後悔の思いが湧き上がってくるようになります。


そしてさらに霊的自覚が深まり、反省と後悔の念で苦しむようになると、次のステップに踏み出すことになります。


次のステップの1つが、「地上に再生する」ということです。地上に再生することで、新たな償いの道を歩み始めることになります。


霊界での苦しみは、地上で味わういかなる苦しみよりも、比較にならないくらい大きいのです。


肉体というバリアーがないために、精神的な苦しみが何十倍もの圧力を持って迫ってくるようになります。

なかにはあまりの苦しさに、狂乱の寸前にまで至るような者もいます。

しかし、そうした苦しみのプロセスのすべてが、カルマの償いになっているのです。


地上でつくった「カルマ」は、霊界では「罰の苦しみ」としてもたらされることになります。その苦しみを通して罪を償う中で、霊的自覚が生まれるようになるのです。


もし、こうした苦しみがなかったならば、未熟な霊はいつまでも霊的成長の道を歩み出すことができないまま放って置かれることになります。


死後、地上で犯した罪に対する罰としての苦しみが与えられ、それによってカルマが償われるということは、神が人間の「霊的成長」のために準備した配慮なのです。”