深い眠りに落ちた後、シルバーコードが完全に切れて霊体と肉体が分離すると、やがて本人は麻酔から醒めるように目を覚まします。
目覚めるまでの時間は、人によって異なります。
死の眠りから目覚めると、ある人はぼんやりした意識の中で、自分とそっくりの人間がベッドに横たわっているのが見えます。
人によっては、あまりにも自分に似ている人間を見て驚きます。
さらに不思議なことに、先程まで自分の病室に集まり、最後の別れをしたはずの家族や親戚の人たちの泣いている姿が見えます。
そこで「私はここにいるよ!」と大きな声で叫ぶのですが、その声はいっこうに伝わりません。
それでその人たちの肩を叩いたりするのですが、全く気がついてくれません。
周りの人たちは皆、自分がそこにいることが分からないのです。
大半の人間はこうした状況に非常に戸惑い、不安に駆られ、混乱するようになります。
自分を取り巻く様子に大きな不安を抱き、動揺するようになります。
「自分の頭がおかしくなったのではないか? 夢を見ているのではないか?」と混乱状態に陥るのが普通です。
やがてそうこうするうちに、すでに死んでいるはずの人たちが現れることもあります。
10年前に死んだ父親、2年前に死んだ妹も現れます。そうした縁者たちに――「あなたは、もう死んでいるのですよ」と教えられ、「ひょっとしたら自分は死んだのかもしれない」と思うようになります。
このようにして少しずつ「死の自覚」が芽生えるようになります。
死の自覚が芽生え始めると、すでに他界している親族や兄弟・知人が目の前に現れるようになります。
実はこうした親族たちは、死に際してずっと付き添い、新しく霊界入りするための手伝いをしてくれていたのです。
本人に死の自覚が生まれると「霊的視野」が開け、周りにいた人々の姿が見えるようになるのです。
死後、自分が死んだことに気がつくと、喜びの時が訪れます。
すでに亡くなっている人たち、自分と親しかった人たちが大勢集まり、自分の霊界入りを心から歓迎してくれる「最も感激的な再会の体験」をすることになります。
親族や知人たちの歓迎を受け、しばらく彼らと対話をした後、出迎えにきてくれた中の一人(*地上時代の守護霊または知人が多い)に連れられて休息場所に行くことになります。
そこで安らかな半睡眠状態で、休息をとるのです。
死んで間もない新参者は、いまだ地上の波動を持ち続け、すぐに霊界になじむことができません。
そのため休息所で、自分の身体や精神を霊界に適応させるための調整が行われることになるのです。
その間に、霊体にまとわり付くように残っていた「幽質接合体」の残滓(ざんし)は脱ぎ捨てられ、霊体(幽体)だけの存在になっていきます。
もちろん自分の死をすぐに自覚できるような人、あるいは生前から死後の世界の存在を知り地上にいながら霊的な歩みをしてきた人の場合は死後、休憩所での意識と身体の調整は必要ありません。
休息場所ではこうした適応プロセスが進行する一方、半醒半睡(はんせいはんすい)の状態(まどろむような状態)の中で、地上時代の自分の歩みを回顧することになります。
自分の目の前に、地上時代のさまざまな出来事が、映画のスクリーンのように展開していきます。
その中にはすでに忘れていた出来事も含まれています。
地上でなした行為が洗いざらい示され、より高い指導霊のインスピレーションの影響を受けながら見つめ、地上時代のすべての行為を自ら査定することになるのです。
これが「幽界での審判」と言われているものの実際です。
そこでは「霊的法則」の働きによって、自分で自分を審判し裁くことになります。
他の霊が審判し裁くのではありません。
地上の裁判のような討議も証拠提出も、一人一人に対する査問などという手間もなく、地上時代のもろもろの行いの霊的価値がひとまとめに明らかにされ、即座に結果が出るようになっています。
しかも地上とは異なり、一切のごまかしや言い訳が効かないのです。
何が間違っていたのか、どうすればよかったのか、といったことが明瞭に分かるようになります。
霊界(幽界)の審判では、自らが裁判官となって、自分で自分を裁くことになりますが、そのときの判決の基準は――「地上で何を行ったのか、世の中のためにどれほど自分を役立てたのか」ということです。
まさに地上での「利他的行為」が判決の基準となるのです。
地上人生を物質欲や自分中心のエゴに巻き込まれることなく無欲に生きた人は、自分の地上人生がいかに価値あるものであったのかを実感し、感謝の思いに打たれるようになります。
霊界の審判では、地上時代のあらゆる見せかけが剥(は)がれ落ち、自我が素っ裸にされます。
これはある者にとっては、たいへんなショックです。
自分の地上時代の間違いが明らかにされるということは、傲慢な人間・利己主義者には大きな苦痛をもたらすようになります。
「霊界の審判」は、人によっては屈辱となったり、激しい後悔を引き起こすのです。
地上時代には絶対に自分の非を認めなかったひねくれ者も、霊界では必ず間違いを悟るようになり、おのずと罪の重さを自覚するようになります。
それにともない必ず、いたたまれないような状態に陥ることになります。
実はこの苦しい状況こそ、自らが犯した摂理に反する行為の結果に他なりません。
摂理に違反した生き方や行為が“罪”となって、“罰”をもたらすことになるのです。“