ごく普通に暮らしている一般人にとって

被告として裁判所へ行く機会など

一生に一度あるか無いか、

無い人が多いだろう・・。

私は、黒のジャケットをユニクロで買い

被告として裁判所へ行った・・。

 

第1回口頭弁論当日、

高速で事故に巻き込まれ30分時間をロス。

それでも開廷30分前に法廷へ到着。

法廷が開いたのは開廷5分前、

私は名前を書いて被告席に座り、

旦那は傍聴席に座った。

若くキレイな裁判長は開廷2分前くらいに

法衣をヒラヒラさせてやって来て、

私を訴えた原告側の女弁護士は

2分も遅れて法廷にやって来た。

 

原告から訴状が届いたのが、9月。

私が答弁書を提出し裁判所へ出頭したのが、10月。

原告側が私の答弁書に対する準備書面を提出した

2回目の期日が、12月。

私が再反論の準備書面を提出した

3回目の期日が、2月だった。

12月と2月は、裁判長にご配慮いただき

私と母は家から電話で裁判に参加した。

 

2回目の期日の12月、

裁判長は、このままでは不利だと言って

私に専門家を頼んだ方が良いと勧めた。

せっかくのアドバイスに従わないのは

まずいのではないかとかなり悩んだが、

裁判長は原告が嘘をついていることを知らないのだ。

だから、

私と旦那は遠くまで行って

原告側の嘘の証拠を覆す

本当の証拠を提出した。

 

2月の期日、電話による本人確認が終わった後、

裁判長から原告側が訴訟を取り下げた旨を聞き、

私と母は取り下げに同意して

あっけなく裁判は終わった・・。

 

つまり、我々は

弁護士を頼まずに

原告と女弁護士に勝ったのだ!。

 

私は裁判長との電話を切った後、

母と旦那と手を取り合って

やったあ、やったあ、と叫びながら

何度も何度も子供のように飛び上がって跳ねた。

嬉しい時には

本当に飛び跳ねたくなるものなのだ・・。

 

後から、

取り下げに同意せずに

判決をもらう事も出来たと知ったが、

原告がまた訴えてくることは

もうないだろうと思う。

 

訴えられてからの5カ月間、

私の頭から裁判の事が離れた日は

1日たりとも無かった。

旦那と必死に毎日裁判に取り組んだ。

インターネットを活用し、実務の本も買い、

担当の書記官に電話で手続き上の質問を何度もして

教えていただいた。

 

原告は嘘をついていたし、

訴状もかなりいい加減なものだった。

我々は相手方の嘘の証拠を見破る新たな証拠を提出し、

相手方の訴状と準備書面の矛盾を突いた。

 

裁判の終わりは唐突で、

拍子抜けのような

これで本当に終わりなのか疑いたくなるような

5カ月にも及ぶ私の心の緊張の糸を

急にプツンと切られたようで

いったいどこに飛んでいったらよいのか

しばらくはふわふわした気分で

気持ちの切り替えが難しかった・・。

 

今回の裁判で知ったのは、

日本の民事裁判では和解が一番多いという事。

 

グラフで見る数は、

和解と判決では少し判決の方が多いが、

判決には立ち退き訴訟のような

被告が一度も出席せずに結審する訴訟も含まれるため、

それを除けば、

日本の裁判では和解の数が一番多いという事になる。

 

なぜそうなるのか?という裏話を読んだら、

裁判官は常に150から200くらいの訴訟を抱えており、

とにかく仕事が多く、転勤も多く、時間が無いらしい。

判決まで行くと、その判決文は永遠に残るため

裁判官は書面をかなり読み込んで

立派な判決文を書かねばならず、

和解に持って行った方が

仕事が少なくて済む・・という事らしい・・。

 

私も今回の裁判で裁判長に和解を何度も勧められた。

しかし、私は和解に応じなかった。

和解することは、原告の嘘を認めることになるからだ。

私は訴えられるような行いはしておらず、

恥じることは一つもなかった。

 

今思うと、

この裁判で一世一代の戦いに臨んだのは我々だけ。

裁判長も女弁護士も

このような裁判関係の実務が毎日のお仕事で、

おそらくこの裁判は和解になると

見越していたのではないだろうか。

 

原告側の女弁護士が着手金目当てであったかどうかは

わからない。

しかし、いい加減な訴状を見る限り、

あまり尊敬できる仕事ではない印象だった。

 

くじけないで良かった・・・。

 

原告が訴訟を取り下げた電話の後

私が飛び上がっていた時、

母も「正義は勝つ」と叫んでた。

「おめえ、まともなことを言えるじゃないか」と

私は跳ねながら更に嬉しくなった・・。

 

先頭で戦ってくれた旦那に感謝。