国民や県民がイライラしているのに、
このことに関して、声明を出せない事に
対してやきもきしてしまいますね。
警察を動かしたら動かしたで、権力を使ったとか
独裁者だとか言うんでしょうね。
菅野は一体何がしたいんでしょうね。
社会の役に立つどころか、
社会の迷惑じゃないですか
かといってさいとう知事の撮影の仕方を真似した
TikTokを流したり…
耳にしない目にしないのが1番ですけど…
結局、兵庫県だけでこういうことが起きてるのかと思ったけど、そうではないみたいで、東京とかでバリバリ活動家は動いて批判とかもしているんだなと。そういうことも情報としてマスコミが発しないので、私たちは平和な穏やかな日本だとただ単に思っていたけれど、現実はそうではなかったということみたいです。
「報道しない自由」という言葉がありますが、それが無制限に認められていいのか、私は疑問に思います。
特にテレビ局は、公共の電波を利用し、国から無線局の免許を受けて放送しています。
もちろん、報道機関には編集の自由があり、政府が「これを報道しろ」と命令する社会になってはいけません。
しかし一方で、国民の判断に大きく影響する重要な事実まで、報道する側の判断だけでほとんど伝えられないとすれば、それも健全なのでしょうか。
「報道の自由」が大切だからこそ、「なぜ報じたのか」だけでなく、「なぜ報じなかったのか」についても、一定の説明責任や透明性があっていいと思います。
政治には情報公開と説明責任を求める。
報道にも透明性と検証を求める。
政治の秘密主義を許さないのと同じように、情報を伝える側についても、国民がきちんと検証できる仕組みが必要なのではないでしょうか。
同じことは、YouTubeやSNSなどの発信にも言えると思います。
政治家や権力を批判することと、特定の個人を狙って人格を傷つけたり、誹謗中傷とも受け取られかねない攻撃的な発信を繰り返したりすることは、同じ「言論の自由」で片付けていいのでしょうか。
発信力の大きな人の言葉によって、大勢の人が一人の人間を一斉に攻撃するような状況が生まれることもあります。
政治には情報公開と説明責任を求める。
報道には透明性と検証を求める。
そして、私たち一人ひとりの発信にも責任がある。
自由を守るためにこそ、「自由には責任が伴う」ということを、もう一度考える必要があるのではないでしょうか。
とりあえずいらっときますね。