全然話は違うんですけど、


私がスイミーを守っている教科書について、

ちょっと疑問に思うことがあるんですけど、


あのイラストを見て、数は力としか思えない、

頭に浮かばないですしね


靖国神社にしても、

今回のスイミーにしても、


参政党が、議員さん同士

集団になっていると、


参政党議員は大勢のイメージを

世の中にさらすと、多党から文句が

入るような気がしますね。


もちろん著作権は守らないといけないんですけど、

内容はイワシのトルネードだからね。


日本で絵面革命を起こす事は無理かも?

自民党に抑えられているのではないかなぁ。


こういうのが教科書に取り上げられるとか、昔はすごくニュースになっていたものですが、今は全然取り上げられないし、睡眠自体がそんな長期的に教科書に乗って問題とならないのが不思議に感じます。



を前提に、





『スイミー』と「ナポレオン」を「数の力」と「視覚的プロパガンダ」という観点から比較・考察した論文構成案を私の思想に沿って作成して貰いました。
集団で移ると言うことを嫌う、立花さんに関しては
ヒトラー的みたいな、悪意を持ったリーダーのような印象を報道陣によって与えられてしまった。
このような「絵面」には、  親玉と集団がいるんですよね。なぜ、スイミーの目にリーダーを入れる必要があったか、それが、マルパクリと言われたけで、

教科書で伝えるのは、イワシのトルネードでよかったはず。でも、そのことが長期にわたって教科書に乗ると言うこと自体がどういうことなんて思いませんか?
余談ですが
昔は教科書に載ることがニュースになったんですけど、今は、「こんなことが教科書に載ってるなんて」みたいな…逆張りになってますよね?
例えば、日本語ではない言語など、、教科書に載っているなんて驚いたと言うSNSをよく見かけます。
それって、ストーリーの権利は、税金なんじゃないんですかって?おもいます。

論文題目:視覚的イメージにおける「数」と「権力」の変遷 ―レオ・レオニ『スイミー』とナポレオン・ボナパルトの比較考察―
1. 序論
 現代社会において、視覚的イメージは人々の政治的・社会的な認識を規定する強力なツールである。本稿では、小学校国語教科書の定番教材であるレオ・レオニ作『スイミー』と、歴史上の政治的カリスマであるナポレオン・ボナパルトを取り上げる。両者に共通する「数の集積による力の創出」と、それが「絵面(えづら)」として提示された際の政治的危うさについて、著作権やプロパガンダの観点から論じる。
2. 『スイミー』における団結の多義性と誤読の可能性
 『スイミー』の結末は、個々が組織の一部(鱗)となり、一匹の巨大な魚を擬似的に形成することで強者に抗う物語である。
  • 教育的意図: 多様性の肯定と協働学習の象徴。
  • 「数の論理」への転換: しかし、この図像は一歩間違えれば「個の抹殺」と「集団による圧力」の象徴へと変質する。近年の参政党による無断利用騒動は、作品が持つ「集団美」のイメージが、特定の政治的勢力を誇示するための「数の力」として消費された典型例である。
3. ナポレオン・ボナパルトと視覚的プロパガンダの確立
 ナポレオンは、自身の権力を正当化するために「イメージ」を最大限に利用した最初の近代的政治家である。
  • 肖像画による虚像の構築: ダヴィッドによる『ベルナール峠を越えるボナパルト』は、事実(ラバでの行軍)を劇的な虚構(白馬での勇姿)に書き換えた。これは「絵面で革命を起こす」行為の先駆けである。
  • 「数」の組織化: 徴兵制による国民軍の創設は、バラバラだった大衆を「フランス国民」という一つの巨大な軍隊へと統合した。これはスイミーたちが巨大な魚を形成するプロセスと構造的に酷似している。
4. 日本の教科書制度と政治的「沈黙」
 『スイミー』が長年教科書に掲載され続け、大きな議論にならない背景には、日本の教育現場における「道徳的定着」がある。
  • 保守性と安定: 定番教材化することで、その背後にある「集団主義の危うさ」に対する批判的思考が停止している可能性。
  • 政治的タブー: 自民党一強体制下の教育行政において、既存の価値観(和の精神・団結)を揺るがすような解釈の変更や、政治的利用に対するマスコミの追求が鈍化している現状。
5. 結論
 『スイミー』の「小さな魚の集まり」も、ナポレオンの「国民軍」も、本質的には「弱者が数によって強者となる」革命の論理を内包している。しかし、そのイメージが著作権を無視して政治利用されたり、批判なく受容されたりするとき、それは「自由への団結」ではなく「他者への排除」や「全体主義」へと反転するリスクを孕む。
 我々に求められるのは、提示された「絵面」の美しさに惑わされず、その「数」の背後にある個の存在と、意図されたプロパガンダを
見抜く批評眼である。

ここで注目すべきは、『スイミー』とナポレオンのイメージ戦略が、ともに「個々の存在を一つの大きな力へと統合する」という構造を持つ点である。スイミーたちは群れによって巨大な魚を形成し、ナポレオンは徴兵制や国民軍によって大衆を「フランス国民」という政治的・軍事的単位へと組織した。どちらも、弱い個が数によって強者へ転化する物語である。


しかし、その「数」は常に善であるとは限らない。自由のための団結は、容易に排除のための圧力へと反転し得る。美しい絵面は、人々の感情を動かす一方で、その背後にある権力の意図を見えにくくする。


したがって、私たちに求められるのは、提示されたイメージを無批判に受け入れることではない。小さな魚の群れであれ、白馬に乗る英雄であれ、その絵面の背後にある「数」「個」「権力」の関係を読み解く批評眼である。『スイミー』の問題は単なる著作権問題にとどまらず、教育、政治、プロパガンダ、そして視覚文化の危うさを考える重要な入口なのである。


なんかすごく気になるんですよね。

参政党の事ではなくて、モヤモヤするんですよね。


参政党はダメで、自民党はいい絵図。

立花さんはダメで、高市さんや、

立憲はいいという集団に支持されている。絵面を報道が、チョイスして誌面に出してるような気がしますよね。