文科大臣を高市首相が切れないのは、萩生田光一氏の“お気に入り”だからです。いつまで日本の教育は萩生田氏に支配されているんですか?萩生田氏の前は森喜朗氏。これで教育が良くなるわけありません。小中高生の自殺は過去最多。日本の教育は崩壊寸前です。緊急事態にこんな大臣で良いわけありません! pic.twitter.com/wqICe3jFnY
— ミド建築・都市観測所 (@Mid_observatory) 2026年3月13日
兵庫県の有名人の、渡海紀三郎氏も
そうじゃないですか?
これを見て思った事は、
文部科学大臣という立場にある以上、教育に対して「ビジョン」を語ること自体は理解できます。しかし、そのビジョンが特定の価値観や政治的な方向性を子どもたちに一方的に押し付けるものであってはならないと思います。
教育は本来、子ども一人ひとりが自分の可能性を見つけ、自分の人生を選び取る力を育てるためのものです。大人や政治の理想像に合わせて形作るものではありません。
だからこそ、国家や政治のビジョンよりも、子どもたち自身の未来や多様な価値観が尊重される教育であってほしい――そう願います。
兵庫県は優秀な人材が多い地域ですが、内申点制度によって学力以外の要素が強く評価され、「本来の能力が正しく見えにくい」と感じる人も少なくありません。結果として、自分の実力を証明しようと努力を重ね、かえって法的知識や社会への関心を高める人が多く育った面もあるように思います。そうした背景が、斉藤知事の再選のような結果にもつながっているのかもしれません。
一方で、内申点は部活動や学校行事、ボランティア活動などへの参加姿勢も評価対象になります。文化祭やスポーツ、音楽活動などに積極的な生徒は教師との接点も多く、結果として評価が高くなりやすいという側面もあります。こうした活動自体は本来素晴らしいものですが、学力中心で努力してきた生徒にとっては「評価のされ方が違う」と感じることもあるでしょう。
公立と私立でも進路の方向性は異なります。公立では学校生活全体の評価が重視される一方、私立では資格取得や専門性、将来のキャリアに直結する努力が求められる場合も多く、どちらの道もそれぞれの厳しさがあります。
努力の形が違うだけで、価値がないわけではありません。評価制度との相性によって報われたように感じる人と、そうでないと感じる人が生まれてしまう――そのことに複雑な思いを抱く人も多いのではないでしょうか。
教育と言うのは難しいのです、
大人が、子供の人生に、少なからず、優劣をつけて、苦しみを一生背負わせてしまった。その罪は、とても大きい。よって、内申点はなくしたほうが、努力したものが報われる、そんな時代になって欲しいなと思います。
特に内申点のように、学力以外の要素も含めて数値化される評価は、公平性について議論が分かれる部分があります。努力の方向や個性によっては正当に評価されにくいと感じる人もいるでしょう。
だからこそ、繰り返しますが、誰もが自分の努力によって道を切り開ける社会、過去の評価に縛られず何度でも挑戦できる社会になってほしい――そのように願わずにはいられません。
自分らしく入れること…が大事。
やはり自由な時間が自分の能力を伸ばせる時間で
あると、言う事は間違いない。✊