怨 | 桂昇のブログ

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戦争の無い、平和な世界になって欲しい

以前、小林多喜二氏惨殺を取り上げた事が有りました。その時の私の、彼の殺人者(あえてこう言ってやる!!)である、安部源基に対する憎しみは普通ではありません。もし生きていたら「丑の刻参り」でもやって呪い殺してやろうか、位に酷い物です(勿論その様な行為は許されるはずもなく、やる気もありませんが)。


第2次大戦前に行われていた、特高の取り調べや、当時の権力者たちの弾圧に対して、極度の怒り・恐怖の感情を示す自分がいる事を認めざるをえないのです。


その感情は普通の怒りではなく、怨恨その物です。その感情は、既に少年期の時からありました。ドラマで特高による取り調べや拷問のシーンが出てきただけで、半狂乱に喚き散らし暴れる私を、両親は説得する事を諦め、テレビが壊されないようにバリケードを張るのがせいぜいでした。


ドラマが終わり少し落ち着いてきた私に、両親は「そんな時代も有ったんだよ。戦争が有ると言うのは、本当に嫌な時代だったんだよ」と、説得したものでした。


両親は、そんな私に、第2次大戦中の日本のギスギスした嫌な時代を教えたかったのかもしれません。でも、異常な反応を示す私は、本当に手のつけようのない存在でしかありませんでした。


その様な生育史の中で私が、完璧なまでの反戦・反権力志向を身に付けたのは当然と言えるかもしれません。友人達と一緒に行動していた時でさえも、右翼の宣伝カーでのうるさい戦歌を聞いた時に、大声で喰ってかかり、あわてた友人達が、私を無理やり引っ張っていき事なきを得た事もあったほどです。

 


にしても、私の戦争・権力に対する激しい嫌悪感はどこから影響を受けたものだったのでしょうか。


どう考えても、親の教育やテレビの影響だけではなさそうです。親の話では幼児の時から、ドラマでも、戦争に関する時代になると、泣き出して手の着けようが無くなったそうです。だからどうも、戦争や秘密警察の類に関する異常な程の反応は、輪廻転生を考えないと説明が付かないのです。


これは想像でしかないのですが、前世で戦争を強要され、大反対か逃げるかしてとっ捕まり、小林多喜二氏と同じような運命をたどったのではないかと思います。そして軍隊や思想警察に対し激しい「怨み」の「念」を残しながら命を絶ったのではないかと……

 


今の時代も、その様な方向に時代が動いていて偽総理日本懐疑に対し、同じように激しい「憎悪」の感情で動いています。ただ、第2次大戦に向かって動いた70年程前とは少し違う様相を呈して始めているのがまだ一縷の望みです。


偽総理も自滅党も日本懐疑も大嫌い。憎んでいます。呪ってさえいます。軽蔑してます。そして始めたのが「ベートーヴェン大作戦」でした。


でも、どこか、今一、本気度が足りないと感じています。ベートーヴェンはそれこそ本気で怒りました。に、対して私は「ああ、今日のノルマを果たした」「今日もやった」不謹慎です。ベートーヴェンが見ていたら情けなく思うでしょう。それより何も、そんな自分が許せません。「怨」の気持ちはどこに置き忘れたんですか。


せっかく怒鳴る場所も機会も時間も与えられているのです。


あとは、自分の気持ちに率直に、怒鳴りたい事を怒鳴ればいいだけです。「怨」の気持ちを本気で吐き出せばよいだけです。そもそも「恥ずかしい」と言う気持ちそのものが不謹慎です。「本気」だったら、そんなの関係ありません。


やはり、自分の気持ちにどこか率直でないのです。それとも平和ボケですか? それどころではないはずです。そんないい加減な気持ちで怒鳴っていても「気持ち」は通じません。「うるせえのが何か訳の分らん事をがなりたててる。関わらない方がよさそうだ」で終わりです。


どう考えても、「本気度」が足りなければ、伝わりません。ただの壊れたスピーカーです。


心の中にある「本気の嫌悪感・憎悪感・危機感、そして怨の気持ち」これを忘れていたら何もなりません。


「怨」もクソもあった物ではありません。