写真論やラディカルな意志のスタイルなどの著作で知られるスーザン・ソンタグはアメリカを長らくリードしてきたイデオローグであった。晩年はコソボ空爆を正当化する言説で幻滅したと評する向きもあったが。スーザン・ソンタグは映画好きで知られるが、彼女が日本映画の中で最も好みだったのが溝口健二の一連の作品である。中でも祇園の姉妹はスーザンによれば、女性抑圧の事象を鋭く糾弾した映画との評で、1930年代に世界のどこの国で祇園の姉妹ほど女性の悲しい歴史を見事に描いた作品はあっただろうかと絶賛している。溝口健二の作品は戦後ヨーロッパの映画祭で受賞した雨月物語や山椒大夫などの作品と戦前の滝の白糸などのメロドラマ風の一連の作品群に大別されるが、戦前のメロドラマこそ溝口の神髄が出ていると思う。明治維新以降、武家の没落に伴い立身出世が重宝される中で、兄や弟の立身出世のために姉や妹が芸者に身を落とし兄弟の学費を捻出するとのチープなストーリーの作品がもてはやされた。しかし、溝口にかかれば歌舞伎や能のような長廻しのカメラショットと相俟って、チープなストーリーが悲譚に昇華されていくので不思議である。溝口自身、生家の没落で実姉が芸者に身売りするという悲劇を体験しているからであろうか。祇園の姉妹は、気位の高い祇園甲部ではなく、祇園乙部という時には枕芸者も兼ねる底辺の花柳界に貧しさゆえに身を落とした姉妹の悲劇を描いた作品だが、おもちゃと呼ばれる妹が男に弄ばれながらも気丈に生きる姿が溝口独特のショットにより見事に描き出されている。ロングショットとクローズアップが目まぐるしく変わるハリウッド映画へのアンチテーゼとしてヌーベルバーグの若い監督たちが長廻しの独特の溝口の撮影手法に傾倒したのも頷けるのである。