JetClipper's Bar next season(仮)

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Si vis pacem, para bellum

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日本のマスコミのミスリードによって日本はおかしくなっているというのが私の長年の持論だし、父のようにメディア内部にいた人からの話も聞くと益々そう思うのだが、それがやっと問題に出来る土壌が出来てきたなというのが最近な気がする。
本当ならば、1990年代に共産圏が崩壊した時に日本のマスコミも自己反省をするべきだったのに、その反省もなく、当初は小沢一郎を後に民主党に偏った報道もあり政権交代を2回成し遂げてしまったからメディアの増長が酷くなったのかもしれない。

マスコミの報道で官庁の仕組みが歪んだ一番の例になるかもしれないのが内閣法制局。
そもそも内閣法制局は複雑な法律を矛盾無いように作り上げるために出来た機関で別に違憲かどうかとか違法かどうかを審判する機関ではない。それは憲法の定めによると最高裁判所の専権事項だ。
ところがマスコミが法の番人だとかいうタイトルをつけたものだから、法制局長官の答弁が政府の行動を縛るという可笑しい事態になった。

そもそも論から言えば、内閣法制局は内閣府に属し、内閣府のトップは内閣総理大臣たる首相にある。となると、人事権を含め内閣法制局は行政機関のひとつとして内閣総理大臣の指揮命令下にあるのは当然の事だ。それは自衛隊が防衛省を通じて内閣総理大臣を最高指揮官として指揮命令に従うのと同じ意味だ。
ところが、何を勘違いしたのか、内閣法制局は法の番人で総理といえどもその発言を覆せないという前例を積み上げてしまった。それが今の状態。
法制局長官を政権が任命して解釈を変えるのは別に何の法律も犯していないし、立憲主義の観点で見ても民主主義の観点で見ても別に問題はない。そもそも立憲主義に則り法定主義でも法の支配でも受け入れるのならば内閣法制局が法の番人であるという主張自体がおかしいのだ。


彼らマスコミが内閣法制局を法の番人にしておきたいのは、ひとえに集団的自衛権は保持しているけど行使できないという法制局長官の国会答弁をフルに生かす為だ。でも本来ならば誰かが憲法裁判所たる最高裁判所にこれについて裁判を起し判例を得るのがまず先だろう。
ただ問題なのはこういう問題になると統治行為には口を出さないという最高裁判所の過去のルールで判決は中途半端になるだろうが。


ところが我が国は世界でもトップクラスに危険なエリアにいる。
核保有国のうち4つと国境を接し、戦時中の朝鮮半島とも国境を接し、同じく戦時下に近い台湾とも国境を接する。このエリアの軍隊の規模は世界的に見ても非常に多い。
そして我が国は中東等の政治的に不安定なエリアにエネルギーを依存している。そして諸外国に多大な投資をして資本収益を得ているが、その為に多くの日本人が海外にいる。また世界的に見ても豊かな日本人は世界中を旅行する可能性がある。

仮に朝鮮有事の際、観光客を含めた日本人を朝鮮半島から脱出させることは可能だろうか?そして工作員の日本入国を阻みつつ退却戦が出来るのだろうか?
現状の法律では何も出来ない。

集団的自衛権がないから自衛隊が韓国に行くわけにも行かない。またアメリカ軍等の空軍利欲の庇護無く民間機を飛ばして救助する事は危険だし、他国の飛行機を日本の自衛隊が警護したり防衛のために予防的に火器を使う事は出来ない。

おそらくマスコミは朝鮮有事の際に日本人がたくさん取り残されていれば、日本政府を責めるだろう。しかしそれはお門違いでそもそも論でいえば日本の法制度が出来ていない事が問題で、その主犯格にマスコミがいる事も。


理想を言えば日本は今の事情に合わせて改憲するのが望ましい。しかし日本国憲法の改憲はかなりハードルが高い。国会で2/3を得るにはかなりの無茶も必要。そしてその手続きにかかる時間も尋常ではない。

まずは日本に集団的自衛権があり、それを行使する事は国際法上問題ないと閣議決定してしまえばよい。法制局にお伺いを立てる必要すらない。


ところが自民党の内部にいるリベラル派も解釈改憲に対して否定的な声を上げてしまう。確かに自民党の結党の綱領を読めば憲法改正は自民党の大看板だ。だから解釈改憲ではなく改憲というならば意味が分かるが、国民的議論だとか時間をかけてとかいうのは単なる問題の先送りで責任を負いたくないだめな政治家だ。

でも日本には時間はない。朝鮮有事はそう遠くない。ロシアのウクライナの対策でヨーロッパやアメリカが身動きが取れない間に中国が何かしでかす可能性は高い。ロシアが民族主義に走りシベリアで何かある可能性もある。また東南アジアでも中国と何かと対立しているからここが火種になる可能性もある。元々華僑の国であるシンガポールでも新しく来た大陸人との対立はある。同じ中国人だから同じ考えとは到底いえないはずだ。

私がブログに掲げているラテン語、汝平和を欲するなら、戦の準備をせよ。私は常にその意識を持つ事が必要だ。残念ながら日本のマスコミや政治家や官僚達にはそれがない。


まずは法制局長官の答弁に法的拘束力がない事を閣議で決定すればいい。


よく考えれば民主党も法制局長官の答弁を禁止時期があったはずで、法制局長官が必ず番人であるという事はないのだが。。。。

STAP細胞の論文について連日のように問題が報道されている。そもそもはSTAP細胞を論文どおりにやっても再現できない事から始まった気がする。そのうち写真に加工がされているとか記述が他の論文と類似しているとか、博士論文と同一部分があるとか、博士論文の引用と参考文献の参照がない等の問題点が出てきた。

現時点ではアウトとしか言い様がない状態だが、そもそもその程度の論文が何故共著者も気付かず、理化学研究所というまた日本でもトップクラスの研究機関で通過してしまったのかという疑問を私は持つ。

科学誌ネイチャーの信頼性は元々は高いのだが、ネイチャー自体、定説に異論を唱え議論を挑む論文を好んで掲載する傾向もあり絶対視する時点で本来は問題でもある。
しかしこのところの科学の発見や発表で問題になるのは学術雑誌の査読や審査体制の問題ではないかと思う。

文系の論文でも当然査読はあるが、理系の論文の場合は再現実験等で検証される事もあり学術雑誌の査読や審査は重要視される。特に理系は発表しただけでは研究業績として評価されない事もあり、学術誌に掲載される事が学会でのきちんとした発表と並んで重要な研究成果の発表の方法でもある。

ところがネイチャーやサイエンスのような長い伝統のある雑誌だけではなく、電子版で査読も文章の明らかな誤字脱字のチェックぐらいしかしないものもあり、学術雑誌に載ったからといって権威がつくというものでもないものもある。こうしたものはどちらかと言えば特許の取得等の知的財産権を主張するためのアリバイに使う傾向もある。ところが日本のマスコミはそうした発表方法の差異やレベルの違い等を理解しないから騙されたりするわけだが。(もっと言うと騙される以前に科学的な知識の不足や方法論の無理解、そして法学に寄った思考法も問題なのだが)

この事件を見ていると、ソーカル事件を思い出す。

ニューヨーク大学の物理学教授のアラン・ソーカルがフランスのポスト・モダン哲学者たちの科学用語をちりばめて読者を煙に巻く評論家や哲学者の欺瞞を批判するためとある論文を学術誌に提出した。それはポストモダンの哲学者や社会学者達の言葉を引用してその内容を賞賛しつつ、それらと数学や理論物理学を関係付けたものを装っていたが、実際は意図的にでたらめを並べただけの意味の無い論文だった。
その意味の無い論文は1996年にソーシャル・テキストという学術誌に掲載された。ただしこの雑誌は査読制度を取っていないものだった事は一応付け加えておく。しかしその出鱈目な論文はまともな自然科学の高等教育を受けた人ならばいい加減なものだと気付く程度のもので故意に人名を間違えたりとフィクションになっている。
ところがポスト・モダンの哲学者たちはこの論文を見抜くことが出来ず、翌年ソーカルが出版した「知の欺瞞」で批判された。

私の世代だと浅田彰とかポスト・モダンの人達が論壇を賑やかしていたけど、一度も彼らのいう事に同調する事は無かったからポスト・モダンに対して常に私は懐疑的だった。だからこそポパーの唱えた批判的合理主義に基づく科学哲学に反応したのかもしれない。


この事件で批判されるべきは実は発表した論文執筆者だけではない。彼女に博士号を認めた博士論文を認めた早稲田大学、そうした研究の再現テストを怠ったのではないかと疑われる理化学研究所も同様に問題がある。
そもそも博士論文で引用の参照もない、参考文献リストが不備、そんなレベルの論文が通るという時点で全く査読も機能していないとしか言い様がない。
少なくとも私が在籍した経営学部のゼミでも引用の参照がないと怒られたし、参考文献リストの不備なんてやったらその場で発表中止ぐらいは平気であるゼミだった。その教授がよく言っていたのは、そういう書式や形式のミスは程度の低い批判を招く、東大とか頭のいいとされる連中はそういう重箱の隅を突くのが得意だからそういう所はきっちり抑えて、中身で勝負できる体制を作る為の形式や書式の整備だと。
会社でもその手のあら探しが得意な人がいて出世していく場合もある。それはそれで仕方がない。その程度の人しか認められないマネジメントの問題だから。
ところが科学の論文では、その論文のミスが早く見つからないと誰かの命が危険に晒される危険がある。文系、とくに経済に関する部分だと社会全体に何らか影響する場合もある。

日本のマスコミはそうした査読は特に無く、元はきちんと校閲というものが機能していたのだが、最近のマスコミはそうした校閲の手抜きが目立つ。本来はテレビ局だって校閲があったのだが最近はそれも機能しないから怪しい健康食品のCMを平気で流してしまう。あれだって昔の校閲基準だったらアウトだ。

また日本のマスコミは発表時点ばかりニュースにするが、本当に必要なのはその後どうなったかという事。例えば訴訟が起されたとか、逮捕されとか、疑いがありという記事はあってもその後実は原告が敗訴したとか和解したとか、誤認逮捕だったとか不起訴になったとか、証拠不十分で真犯人がいたとか報道されない。そうした報道被害についても検証すらしない。

国がやればいいという話もあるだろうが、それは違う。国が全ての言論をチェックするというのはそもそもおかしな話。自らを律する事がそもそもの民主主義の根幹であるはずで、自らを律する事が出来ないのは子供で大人としての権利を与えてはいけない存在だという事。

研究者としての彼女のキャリアはおそらく終わりになるかもしれない。しかしこれこそ再発防止の対策を取らないといけないことだと思うのだが。
【筆者が早稲田嫌いという事もあり早稲田に冷たいような文章になってしまったが、別に早稲田大学の権威を認めないわけではない。単に校風が合わないだけで所属している人で仲良しの人も多いという事も一応書いておく】


東日本大震災から3年が経過する。


よく震災から何かを学ばなければという話が出る。原発事故も同様に。

暴論を言えば、三陸に関しては津波被害は今回だけではない。何度も起こっていて、ここまで津波が来たという目印があったりするエリア。という事はそのエリアに住むという事はそういうリスクがあるという認識を持っていて当然だと。江戸時代、江戸や大坂は大火が度々あったので、商家に限らず長屋も郊外に材木というかもうある程度加工した木材を保管する場所を用意して、火事で焼けたら同じ場所に同じく作れるようにしていたという。それが江戸の防火対策を遅らせ瓦葺や土蔵の普及を妨げたという問題もあるのだが、それくらいの備えをするのがリスクヘッジの基本だろう。
災害から学べというならば、今回の津波が来たエリアには住まない、住むなら高台移転か高台を作るようにするのが原則とするのが当然だろう。過去の原発事故の起こった回数から考えた場合、地震と津波はもっと頻度が多いのだから。
防波堤も高くしすぎると逆に海が見えず、危険を察知する事が出来ないし、防波堤を作ったから守れたエリアも無かったことから、無駄な防波堤を作るよりも高台移転が先のはずだ。
ところが高台移転も進まず、住宅の復旧も進まないという。だったら、自己責任で戻るのは許可してその人達は自分でリスクを取ると決めてしまえばいい。ところが日本のマスコミも国民も困った時は国が何とかしてくれるという変な信念を持っているのでこれが言えない。でも冷静に考えればそれが出来ないならば、強制的に収用してでも高台移転を進めるべきだし、津波が来たエリアは居住禁止ぐらいの事はしていいのではないか。それが失敗から学ぶという事だろう。


その部分に対しては多くの識者があまり大声で主張しない。私には理解できない。


翻って原発の方はとにかく安全が確保されなければ失敗を学んでない、危険なままだと主張する。それはおかしいだろう。
そもそも事故調査委員会なるものが3つ、他に東電と大前氏ので2つ出来て、まともなのは大前氏のチームの位だった。ほかはインタビューが不足だったり、科学的知見が不足だったり、専門家の協力が無かった(逆に原子力ムラの意見は聞かれなかったのも問題なのだが)等の問題点も指摘されている。私は一応入手出来る範囲で事故調査委員会の報告書を読んだが正直これで検証レポートと言うならば随分程度の低いレポートだと言わざるを得ない。少なくともこういう事故調査委員会で協力する人には裁判での免責を保証しない限り本当のことは言えない。何しろ震災後、様々な訴訟が提起されていたのだから、うかつに証言は出来ないという事情もあるのだから。
(その点ではアメリカの国家運輸安全委員会はそういう免責できちんと証言を聞きだせる。)

今回の原発事故で何もなかった女川や福島第二と事故のあった福島第一との違いは何かという事を明確にする事からだろう。
その点では原発事故の原因は全電源喪失での冷却機能停止が原因であって、それさえコントロールされれば問題が起きなかった可能性の方が高い。実際福島第二は止まっている。暴論だが、震災のような事故時に原子炉緊急停止をするより低速でも運転し電力確保の方が良いのではという意見すらあるのだ。
で、事故原因はほぼ特定され、問題点も明らかになり、電源車の確保等の対策も出来てきた。何も福島第一を運転させろとは言っていない。過去の経験から津波被害も無いところから運転を再開させてよい。しかもそれには別に法律改正も何もいらない。粛々と定期点検後の検査を行えばいいのだ。それで法的には問題がない。地元自治体の了解も必要ない。
原子力規制委員会には原発を止めたり廃止させる権限はなく、再稼動の決定権もない。何となくあるように見えるだけで、その根拠は初期に出された田中委員長の私案だけ。本来人権を守るためのリベラルが法の支配を無視して超法規的措置にでた結果がこれだ。

よく言われる羹に懲りて膾吹くというが、原子力発電についてはまさにこの表現以外ない。

それを事故から学んでいない、安全が確保されたとはいえないから再稼動反対という事故調査委員会の各委員長の言論の自由は認めるけど、じゃあどうするという対案が全く出ていない報告書しかないのだから無責任だという批判も甘んじて受けてもらうしかないだろう。
しかも原発の事故の発生確率は地震よりも低い。震災を教訓にするならば東京の直下型地震はどうするのかという事に言及するべきでそれには何も言わないというのもリスクの大小を全く計れていないというだけだろう。

東日本大震災から学ぶならば、東京は直下型地震とそれに伴う火事・津波等に対処するために狭い道の入り組んだエリアを強制収用・再開発して防火帯を作ったり圓生ではなくて延焼を防止する事の方が必要な事。橋を強化したりするのも重要になる。交通インフラだけではなく、一時的な避難場所の確保も重要なテーマだし、軍用車両やヘリコプター、場合によっては輸送機が降りられる場所の確保も都市計画に必要なはずだ。

津波や都市計画の問題を指摘せず原発だけに反対するのは為にする反対でしかないと思うし、リスクを無視しているとしかいえない。そういう事を喜んで報道するマスコミも風評被害を何度も起しているのに失敗から学ばない。