意識的に文章を書かなくなって、
私の中でひとつ、大きな革命が起きた気がする。


自己満足、自己実現、自己主張、自己義認・・・

愛と反対のものたち。

愛は、相手の満足を求め、相手が花開くことに全力を尽くし、相手の主張を認め受け取ることであり、常に相手を自分よりも優れた者として受け取り、相手の正しさを受け入れることである。


そして主は、自己満足、自己実現、自己主張、自己義認に満ちていた私を受け入れ、本当に赦し、粉々に砕いて、変えてくださっているのだな…と実感。


関東に来て、私は随分と自分というものをちゃんと知った気がする。


一体どれだけ自分中心よ?と。

そして暴露されたのは、私の「善行」はすべて、その自己中心のカモフラージュだったということ。ガーン。笑


簡単に言うと、まだそこまで救いを必要としていない人たちの前でのそれは「善行」であったかもしれないが、本気で救いを必要とする人の前でのそれは、「偽善」にすぎなかったということ。


私はたぶん、その現実を見たくなかったので必至に取り繕っていたんだと思う。
自分が偽善者であると、認めたくなかった。
何か、神様の役に立っていると思っていたかった。


だから、必死に自分に言い聞かせていた。
自分は御心にかなっているはずだ…と。


いやはや。
現実は厳しいっす。笑



リアルな現実を生きている人にとって、
私の言葉は小娘のたわごとにすぎなかった。ほんとに。



私はいま、そのことを知って、
本当に語るべきことばについて、本当に考えさせられている。


でも、そのことを受けとって、
ずっと消えなかった心の後ろめたさは完全になくなった。


それはまさに、経験したことのない平安・・・。


たぶん、自分が偽善者であることを、誰よりもよく知っていたのは、私自身であったということなんだろうなと思う。


そんなわけで、
私は今月末から、北に行きます。



余市惠泉塾へ



今度こそ、本当の意味で、一からの出直し。



真実の愛を求め、
それが本当にみことばの通りに実現することを証するために。


もう妥協しない。


この先の人生にいったい何があろうと、
私は、自分を白紙撤回することを拒まない。


それがたとえ、それまでしてきたこと、やってきたことのすべてを否定しなければならなくても、それが神様の御心と違っていたら、みことばどおりのことはついに実現しない。


今、その可能性に懸けてみようと思う。



「みことばどおり」への挑戦。



まぁほんとに、
これからどうなるか。笑
乞うご期待・・・




神は、その独り子をお与えになったほどに、
世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。

神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
<ヨハネ3:16-17>

誰でも渇いている者はわたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、
その人の心の奥底から生きる水の川々が流れ出るのです。
<ヨハネ7:37>