IMG_4311IMG_4257

いつかいつかと言っていました新しい中国料理のお店が
ついにオープンいたしました!!!

この一カ月くらいは、今までとは比べ物にならないくらい
めちゃくちゃ忙しい毎日で、おかげさまで充実した毎日を過ごしています。

思っていた以上に素晴らしいお店になりました

お料理も最高です!

春餅(チュンビン)という小麦粉を練って薄く焼いた皮に
お料理を巻いて食べるお料理が専門です。
中国の東北地方の家庭料理です
北海道産小麦を使っているので、もっちもちです♪

お酒を飲む方にも、お子様にも、大評判

春餅ランチは1,000円
夜のコースは3,000円~、飲み放題は+1,500円で♪

4名様以上でお座敷の個室のご利用もできます。
家具はすべて無垢材でできた家具です。
二メートルくらいの大きな水槽にお魚も泳いでいます。笑

家族で、カップルで、グループで、
ぜひ一度遊びに来てね!

おだんご頭のNaomiさんがお待ちしてまーす  
それでは取り急ぎ報告まで!
どうぞよろしくー!!!

「中国小麦粉料理専門店 恵泉」

火曜日定休
年末年始 31日~4日までお休み
※ただし、定休の場合でも、事前に御予約を頂ければ対応が可能なことがあります。

〒264-0025
千葉市若葉区都賀3-24-8 都賀プラザ1F
TEL&FAX 043-309-8350
P駐車場10台ほどご用意あります。


Naomiより
今日は久しぶりにドキドキしている。
長かったトンネルをやっと抜けられた朝は実に爽やか。

振り返れば結構長いトンネルだった。
抜けてみて始めて分かる苦しみの構造に改めて驚かされたりする。


今回は、まぁなんというのか、
つくづく根がネガティブな自分に驚いた。

まだ何もしていないのに、勝手に自分に「不可能」のレッテルを貼り、
「可能」への道を自ら閉ざして苦しんでいたりする。

あらかじめ「不可能」とレッテルを貼っているので、
例えばその後、何かの「可能性」が出現しようとも、
その出番を最初の時点で一切封じ込めているので、結局八方塞りになってしまう。

例えば「中国語」。

私にとってのそれはなんでかわからないけれど、「不可能」なことだったらしい。
根拠のない「不可能」。しかし、揺るがない信仰。
それは、「私には絶対に無理」という確信。(苦笑)

なんでそう思うのかわからないけれど、
「絶対不可能」なことに対する挑戦は半端なくしんどい。

なんでわざわざ「不可能」というレッテルを貼ったのかはわからないけれど、
目を上げればでかでかと 『不可能』 と掲げてあるので、
どんなにがんばろうと思っても、がんばれるわけがない。


私も本当に懲りないね・・・
でも本当に苦しかったと、今なら言える。


しかし、
解決の糸口はなんと簡単なことだったでしょう。


ーわたしは陶工の家に下っていった。
 彼はろくろを使って仕事をしていた。
 陶工な粘土で1つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、
 それを作り直すのであった。
 そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。
 (中略)
 「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、
  イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」エレミヤ18:3~6ー


いやほんとに。
たったこれだけのことなのです。


陶工にはあらかじめ作りたい形があって、
粘土をその形に整えようと、こねたり回したりして形を変形させようとする。

しかも、うまくいかなかったら、もう一回やり直すって。

そして、
「いい加減わたし(陶工)に身を委ねなさいイスラエル(粘土)よ!」
と、神は人々に呼びかける。

その粘土にとって一番ふさわしい形を知っているのは何より
その器を必要として生み出す陶工自身なのだから・・・


そのくらい、作りたい形のイメージを持って、神様は私たち人間をこねる。
叩く。まわす。作り直す。

そして、この陶工の作業は大いなる「構想」ありき。

不可能な「構想」に対して作業のスタートはない。
なんらかの可能性があるからこそ、作業はスタートされる。
まして、神様ならそれは当然のこと。

少なくとも今、わたしに中国語の習得を求められる状況が用意されているなら、
私にとって中国語を習得する事が、「絶対不可能なこと」であるはずはないのである。
まして、それは私が望んだことでなく、「必要とされて」のことであるなら、尚更のこと。

そして、「可能性」は、実は「希望」であることに改めて気づく。

あ。なるほど。
「私にもできるかもしれないんだ。」

と希望が生まれる。

そして「希望」は『いのちの源』となって、すべての力の原動力となる。

なぁーるほど


・・・・。
私は決して、悩みを解決してあげる人間ではない。
例えばある人にとっては「くだらない」と思うようなことにさえ、
真剣に悩み、苦しむ私がいる。


劣等感が、優越感の裏返しだったり、
隠れた優越感が罪悪感を生み出す悪循環が苦しかったり・・・


あぁ本当に、「自分」の何かに囚われることの苦しさは測り知れない。


それを紛らわしきれなくなった時、人は心を閉ざして、孤独な世界へと入り込んでいく。
その孤独は表現し難く、どうにもならない思いが募りに募ってあらゆる衝動を生む。


それは病となったり、事件となったりする。


その時、相談できる誰かがいる人は本当に幸い。
そんな時、慰めてくれる存在がいる人は本当に幸せ。


でも、世の中にはそんな世界から完全に切り離されてしまっている人もいる。

恵泉塾は、そんな絶望の先に一点輝く希望の旗印。

縁もゆかりもない全くの赤の他人が、自分のために命を懸けてくれるという。

「それなら自分にも、助けの道があるかもしれない・・・」


大事なことは、今こうして命与えられている私たちが、
神と人とに対して、『希望』であるかどうか・・・


私の孤独や悩みや苦しみは、
いつでも、誰かの孤独に寄り添う準備。


苦しいトンネルの先に必ず見出せる「神の計画」。
その存在感は事あるごとに増し加わっていく。


自分は神に知られている存在であり、

そして何より、

必要とされている存在であることを知る幸い。


それは、
どんな苦しみの中にある人にとっても変わらない永遠の希望。


そして、
その希望を見出す人の心が

やっと

力強く躍動し始める。
3か月ぶりにほっかいどうに里帰り。
1日だけだったけど、久しぶりに惠泉塾で畑作業して、
思いっきり羽を伸ばしてきた感じ。

そして、帰り際、
昨日は久しぶりに高校時代の友達に会いにいった。

幸せそうな結婚式の写真。
もうすぐ生まれる赤ちゃんの気配。
すっきりとキレイに整えられているおうち。

彼女に、

Naomiも人のことばっかり考えてないで、
自分のことちゃんと考えないとだめだよ!

と怒られた・・・w


彼女もかなりしっかりこれからのことを考えてる。
わたしは、もう自分のことは考えない!と公言したばかり。笑

でもまぁ、こうやって、ちゃんと子供やご主人のことを考えているお母さんが
日本にはどれだけいるんだろうな・・・と漠然と思った。
(彼女はノンクリスチャン!)

モンスターペアレンツとか、言うけれど、
あれって本当にそうなんだろうかね・・・

とりあえず、わたしの友人で、人生のことや結婚のこと、
子供のことや、これからのことで非常識なことを考えている人は少ないなぁと思う。

でも、ぼそっとそう呟いたら、

「類は友を呼ぶんだよ」と 言われた。笑


そうなのかな。


でも、やっぱりわたしたちの世代って、結構みんな真剣に生きている気がするな。

目覚ましく変化する時代の中で、
それぞれの価値観をしっかり握りしめて、
流されることなく歩もうとしていると思う。

というか、流されまいとして、必死に生きてきた結果なのかな。

自殺とか殺人とか、世間を騒がせた事件もたくさんあった世代だけど、
でもそれって、その分だけ真剣に悩んでいた結果でもあると思う。

否応にも流れていく時代の流れに、
ついていくことも、逆らうこともできなくて
苦しかった人はきっとたくさんいると思う。

ちょうどPCや携帯の普及とわたし達の成長は同じくらい。


時代の変化をモロに受けてきた世代。


自分の世代だけを特別視するわけじゃないけれど、
でも、時代と時代の狭間にいたからこそ、逆にはっきりとしたアイデンティティを持たされたことは確かだと思う。


「人生いかに生きるべきか?」


夢に見るような幸せな家庭を築こうとする人がいる。
崩壊した家庭に光を灯そうと奔走する人がいる。
人生に失敗し、仕切り直しをしようと立ち上がる人がいる。
取り返しのつかない人生と悔みつつ死んでいく人がいる。
死を前に、我が人生悔いなしと安らかに死を待つ人がいる。


惠泉塾にレストハウスが完成した。

人生の最期を過ごす場所。

老人ホームでもなく、孤独で過酷な家族介護の中でもなく、
6人の看護士と家族と安らかな最期を迎える場所。


わたしも去年一人の尊敬すべき大先輩の最期を見届けた。

その人もまた、最期の最期まで、悔いなき人生を生き抜いた人だった。

今もまた、
30代で末期がん。
静かに死を迎えようとしている人がそこにいた。

本当にきれいな目をして、静かに笑いかけてくれたその女性に、
わたしは何か神の眼差しを見たような気がした。


なんか、いろいろ考えちゃうな。


惠泉塾には今、真剣に人生考え直そうと奮闘している若者がたくさんいる。
どの人のことも、心から応援したい気持ちにされた。
わたしにできることはなんだろう?と心から思わされた。


新しいお店の工事も始まる。


まだピンときてない。笑


困っている人を助けるために
いちいち開業してたらやってけないんじゃない?


と言われたけど、
確かにそうかもしれない。


でも、
たった一人のために始まる事業が、
たった一人を救うためだけにあってもいいと、思う。

その結果を用いるのは神様だ。

誰かひとりのための仕事が、結果として多くを救うことになる。

それは、間違いなく神業でしょう。

さぁ

今日から忙しいぞ。

どうぞよろしく。