マタイの福音書 5章13節~16節


5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。



少し間が空いてしまいました。まあ無理しないで自分の勉強のつもりで少しずつでも書いて行こうと思っていますので、よろしく。

さて今日の言葉は結構有名です。

イエス様は私達に対して「地の塩」「世の光」であるとおっしゃいました。

「塩」とはなんでしょうか。もちろん塩味をつける調味料。あとは腐敗を防ぐための道具(塩漬け)。
体にも必ず必要な物質。
とても色々なところで役に立っているものです。

「光」はわかりますね。16節にあるように私達の行いを通して人々がイエスキリストの素晴らしさを知るように輝くということです。

果たして人類史上クリスチャンは輝いていたでしょうか。十字軍、宗教戦争、カトリックの堕落など様々な問題がありました。クリスチャン国といわれているアメリカだって戦争大好きです。

しかしこれはあくまで人間がやっていることで、神様には関係ありません。神様の命令を人間は守ることができないのです。聖書の教えどおりに人間が生きれれば、戦争も犯罪もなくなり、平和な世界が訪れます。でもできないのが現実。それが原罪だと思います。

しかしクリスチャンの中にはまさに地の塩、世の光になっている人もたくさんいると思います。

クリスチャンと聞くと多くの人は清い人だと思うかもしれません。しかしそれは間違いで、自分の罪に早く気付いた人だということだけです。教会は清い人の集まるところだから自分は関係ないし、行けないという話しもきいたことがありますが、教会も罪人の集まりであることは間違いありません。しかし、教会の人は皆自分の罪に気付いて、悔い改めた人です。

だから皆さん気にせず教会にどんどん行きましょう。そして罪を悔い改めてみましょう。違った世界が訪れること間違いなしですよ。
マタイの福音書 5章1節~12節


5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。

5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

5:5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

5:6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。

5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

5:8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。

5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。



逆説的は言葉並んでしますね。
マタイ5章からはいわゆる「山上の垂訓」といわれる部分で、イエス様が群集に向って語りかける場面です。
イエス様は現在の状況がどうであろうと、それをしのび、神様に従っていけば、将来天において報いは大きいということをおっしゃっています。

私達のこの地上での生活は仮住まいにすぎません。この地上での生活を終えた後は永遠の生活が待っています。天において素晴らしい生活をおくるか、それともゲヘナ(地獄)で永遠の火に苦しむか。
それは自分の選択です。
永遠という時と比べれば、この地上での生活は一瞬に過ぎません。

地上での生活は特に義を追及しようとすれば壁がたくさんあります。しかし、私達はあくまでイエス様から目を離さず、この世の中と妥協せず、義を通し、平和を作って生きたいと、そう考えます。


使途パウロはローマ人への手紙の中に強い確信に満ちて以下のように書いています。


8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。

8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、

8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。


まさにその通りですね。アーメン。
マタイの福音書 4章19節~22節

4:18 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。

4:19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」

4:20 彼らはすぐに網を捨てて従った。

4:21 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。

4:22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。



イエス様は宣教を開始してすぐに、弟子達を集めました。十二弟子とか十二使徒とか言われていて結構有名なのでどこかで聞いたことがあるかもしれません。

最初に声をかけたのは漁師たちだったようです。当時の漁師たちは現代とは違って決して地位の高い、豊かな人たちではありませんでした。学問もありませんでした。しかしそのような人たちをイエス様はあえてお選びになりました。

「人間をとる漁師にしてあげよう」と語りかけたイエス様。そしてすぐに従った弟子達。
今もイエス様は私達に語りかけておられるような気がします。

私達は世の中の様々なしがらみや自分の考えなどですぐにイエス様に従うことができません。
弟子達のようにただイエスを信じ、しがらみや自分の考えなどはすべて放棄してすぐに従っていく自分でありたいものだといつも思います。