バイスタ26

霊の務は、はるかに栄光あるもので、 主の霊のあるところには、自由がある。 

 

3:1わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのだろうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた、あるいは、あなたがたからの推薦状が必要なのだろうか。 3:2わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。 3:3そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。3:4こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。 3:5もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。 3:6神はわたしたちに力を与えてそれは新しい契約に仕える者とされたのである。、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。 3:7もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、 3:8まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。 3:9もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。 3:10そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。 3:11もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである。3:12こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、 3:13そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。 3:14実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。 3:15今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。 3:16しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。 3:17主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 3:18わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。(コリント人への手紙第二3章1~17)

 

10:11こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。10:12しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、 10:13それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。 10:14彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。 10:15聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、10:16「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」と言い、 10:17さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。 10:18これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない10:19兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、 10:20彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、 10:21さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、 10:22心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。 10:23また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、 10:24愛と善行とを励むように互に努め、 10:25ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。(へブル人への手紙10章12~25)

 

9:11しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 9:12かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。 9:13もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、 9:14永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか 9:15それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。(へブル人への手紙8章11~15)

 

8:6ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。 8:7もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。 (へブル人への手紙8章6~12)

 

8:1こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 8:2なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。8:3律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 8:4これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。 8:5なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。 8:6肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 8:7なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。 8:8また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。 8:9しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。 8:10もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。 8:11もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。8:12それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。 8:13なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。 8:14すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 8:15あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。 8:16御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。 8:17もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。(ローマ人への手紙8:1~17)

 

自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。(ローマ人への手紙101013節)

『イエス様は十字架で死に、3日後によみがえれたと信じます。

私はイエスキリストを主として、救い主として、受け入れます。

私の心に入って下さい。全て暗闇の世界と結ばれた契約を断ち切り、拒否します。

イエス様、私に、聖霊様のバプテスマを授けてください。

信仰によって受け入れます。

アーメン。』