聖書中、「信仰の賜物」を持っていたのではと思われる人物を幾人か挙げてみます。

 

【夢見る者・ヨセフ】

 

旧約聖書の創世記に登場するヨセフは「あの夢見る者」と悪口雑言されましたが、十七歳の時に啓示された神様からの夢を信じ続けて、その「幻」の力でエジプトにおける十三年間の過酷な奴隷生活や獄中生活にあっても「立派にふるまって」耐え抜きました。後に、神様に認められた逆転勝利の栄華を極めたのが、このヨセフでした。

 

聖霊様の言語は夢と幻です。

 

聖霊様からのビジョンは救いをもたらし、災いを祝福に変え、苦難を乗り越える力を与えます。

 

【箱舟の物語で知られるノア】

 

神様からの啓示通りに箱舟を造って乗り込み、大洪水による裁きを免れたノアという人物が旧約聖書に登場します。彼はまだ見たことのない雨という自然現象を信仰で見つめて、大雨の大洪水に備えたあのように巨大な箱舟を百二十年もかけて建築しました。

 

発掘調査によれば全長百五十m、幅二十五m、高さ十五m。この三十対五対三の比率は今日でも造船技術の黄金率と言われます。現代のタンカーも、この比率を模範に造られています。

 

ノアに必要だったのは多くの木材・献身的な家族の労力・時間・その他多くの“目くら経費”でしたが、何より神様の御言葉に対する信仰こそ一番必要なものでした。家族以外、誰も神様を信じない背信の時代に、義なる裁きをなさり救いをも与える善き神を信じたことは偉大です。

 

今日の日本のクリスチャンたちも同様です。リバイバル(イエスを主と信じる人々が次々に生み出されている)国家や環境の中では、イエス様を信じることはさほど困難ではないでしょうが、クリスチャン人ロの少ない環境で信じることは困難を極めます。信仰の賞が天国で待っていることでしょう。

 

ノアは神の裁きの洪水後、箱舟が漂着して水の引いたアララテ山上で、あえて洪水に弱いぶどう作りをする農夫になりました。再び全地を滅ぼすレベルの大洪水は起こさないという神様の言葉と、その約束として現れた契約の虹を信じたのです。

農業の仕事自体が彼の献身の証し、信仰告白となりました。現代流に言えばイエス様を信じて教会に通うため日曜に働く仕事場を選ばないという感じでしょうか。

 

【十字架上でイエス様を信じた強盗人】

 

新約聖書では、イエス様と共に十字架にかかり、その場で悔い改めてパラダイスに入った強盗人が挙げられます。民衆全体が十宇架の死を叫ぶ只中で、身代わりの死を成就されるために、イエス様は何一つ奇蹟を起こされませんでした。十字架上で血潮にまみれ、悲惨に砕かれ、ボロボロの御姿のイエス様は一言、こう祈りました。

 

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

(ルカ二十三章三十四節)

 

イエス様のこの御姿は、まさに否定的な環境を見ず、聖書の御言葉にのみ信仰の土台を置く勇士のようです。

 

神の栄光の雲に乗って御使いの群集と来られる光輝く再臨のイエス様を見たなら、誰でも彼を神様であると信じられるでしょう。しかし、この強盗人は、このボロボロのイエス様を間近に見て、イエスが救い主であると信じました。

 

【シメオンとアンナス】

 

イエス様の降誕時に幼子を抱いたシメオンとアンナも良い例です。らは前述の救われた強盗人以上に、イエス様の語られた御教えや成された奇蹟をうわさにさえも聞いたことのない人たちです。

 

なぜなら、イエス様はその時まだ、人となって生まれたばかりだったからです。無力な幼子イエスを見て神様だと信じたのです。

 

永遠の命に通じる「信仰の賜物」は大切です。私たちはただ信仰によって、神様が罪なきイエス様を十字架の死から三日目に復活させられたと信じています。

 

「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」(ヨハネ二十章二十九節)

アーメン!

【泉パウロ】

 

 

私たちは、東京都東大和市立野にある純福音立川教会で一緒にイエス・キリストを礼拝しています。

礼拝の動画もこちらで、ごらんいただけます♪

 

このブログを読んでイエス・キリストに興味を持たれた方ほ、ぜひ、お近くのキリスト教会に足をお運びください。