「Christmas」。「Chirist」には「キリスト」、「mas」には「ミサ、礼拝」という意味。「キリストの礼拝」を表しています。「Xmas」という表記はギリシャ語でキリストを「Χριστός(Christos)」と表記するため、その頭文字の「X」を取り、略語として使用されています。

現在もアカデミー賞の史上最多受賞作品である映画ベンハーの原作者は、ルー・ウォーレスという人物で、彼は無神論者でした。南北戦争時代の将軍かつアメリカ合衆国の政治家でもあり、もともとは筋金入りの無神論者。そんな彼が、「キリスト教撲滅論」という本を書く目的で、キリスト教の間違いを示すために、本を書こうとして、調査を始めましたが、逆に、調べるほど聖書が正しいことを知り、イエス・キリストのことを深くリサーチするうちに、自分自身がクリスチャンになって、その結果書いた小説が、当時国民的ベストセラーとなった「ベン・ハー」です。ベンハーの副題は「キリストの物語」です。
イエスは誰? 神か嘘つきか狂人か? 嘘のために人は死ねるか? 

イエス様の語られた内容は狂人のメッセージではない論理的で理論的です。弟子たちの証言をよく読み考えると、誰が好き好んで迫害を受けるだろうか。益になることなら死に物狂いで頑張ることもできます。しかし何も益にならないことのため偽証をし、殉教するなど考えられません。イエス様を先生と呼んだニコデモなどは愚か者ではない極めて博学な聖書に精通した人物です。キリストの誕生、生涯、死、復活について、400以上も預言されていたことがことごとく成就し、未来への預言も的中しています。

 

モーセはイエス生誕の1300-1500年前に預言

申18:15 あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

 

ミカ700年前 救い主が産まれる街を預言

ミカ5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

 

イザヤ700年前ダビデの家系からと預言 

イザ9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

 

イザヤは処女から生まれると預言 イザ7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

 

ダニエルはその時期を預言 ダニ9:25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。

 

ホセアは迫害されるから避難で3年半エジプト生活を預言 ホセ11:1 イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。

 

イエス生誕の700年前、イザヤ預言 救い主はガリラヤから宣教開始すると預言

イザ9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

 

成就 マタ4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。4:16 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」4:17 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 

イエスの働きをイザヤが預言 

イザ61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、61:2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、

 

成就 ルカ4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」

 

イザヤが迫害され拒まれると預言 イザ53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

 

ゼカリヤがロバに乗ってエルサレム入場を預言

ゼカ9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

 

ダビデは大祭司であるイエスを預言

詩110:4 主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」

 

成就 ヘブル3:1 そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。3:2 モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。

 

ダビデは偽証で理由なく忌み嫌われ告訴されると預言

詩35:11 暴虐な証人どもが立ち私の知らないことを私に問う。

 

詩35:19 偽り者の、私の敵を、私のことで喜ばせないでください。ゆえもなく私を憎む人々が目くばせしないようにしてください。35:20 彼らは平和を語らず、地の平穏な人々に、欺きごとをたくらむからです。

 

イザヤは不合理な告訴の前で沈黙を預言 

イザ53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

 

ダビデはユダの裏切りを1000年前に預言

詩41:9 私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。

 

ゼカリヤは裏切りの報酬の銀貨は30枚と預言

ゼカリヤ ゼカ11:12 私は彼らに言った。「あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。」すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。11:13 主は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。

 

イザヤがつばがけられることを預言 イザ50:6 打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。

 

イザヤが火打石のように硬いこぶしで殴られることを預言 

イザ50:7神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。

 

ゼカリヤは手足に釘打ち、わき腹にヤリが刺さると預言 

ゼカ12:10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

 

イザヤは強盗たちの真ん中の十字架でとりなし祈ると預言 

イザ53:12彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

 

ダビデはイエスがとりなし祈ると預言

詩109:4 彼らは、私の愛への報いとして私をなじります。私は祈るばかりです。

 

ダビデは受難のイエスは「渇く」ことと酸いぶどう酒を預言 

詩69:21 彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。

 

ダビデはローマ兵が下着をくじで四分割を預言

詩22:17 私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。22:18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。

 

ダビデは骨が砕かれないことを預言

詩34:20 主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。

 

イザヤは金持ちヨセフの共同一等墓地に埋葬されることを預言 

イザ53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

 

イザヤはイエス復活も預言

詩16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。

 

詩49:15 しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。 

 

イエスは誰?

イエスは神か嘘つきか狂人か?

嘘のために死ねるか?弟子たちまで。

狂人のメッセージでない論理的で理論的

 

イエスは、自分が神へ通じる唯一の道であることを主張した

ヨハネ 14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

 

マタイ 11:27 「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」

 

ヨハネ 1:1-5「すべてのものは、この方に よって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」 

 

イエスは罪を許すことができると言った

ユダヤ人指導者たちがイエスに憤慨していた理由の一つは、彼が罪を許したことです。宗教的指導者たちは、罪は神に背く行為であるので神のみが罪を許すことができると考えていました。

 

ルカ 5:20-21 「彼らの信仰を見て、イエスは『友よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。『神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を許すことができよう。』」

 

ルカ 7:48-49 「そして女に、『あなたの罪は赦されています。』と言われた。すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。『罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。』」

 

イエスは自分が天国の王であると言った

ルカ 22:69 「しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」

ルカ 23:1-3 「そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。『この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。』 するとピラトはイエスに、『あなたは、ユダヤ人の王ですか。』と尋ねた。イエスは答えて、『そのとおりです。』と言われた。」 

 

ヨハネ 18:36-37 「イエスは答えられた。『わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。』 そ こでピラトはイエスに言った。『それでは、あなたは王なのですか。』イエスは答えられた。『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、 真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』」 

 

ヨハネ 17:5 「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」

 

イエスは永遠の命を与えることができると言った

ヨハネ 6:40 「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

 

ヨハネ 6:47 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」

 

ヨハネ 10:28-30 「わ たしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らを お与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」

 

ヨハネ 11:25 「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』」

 

イエスは復活を主張した

ヨハネ 10:17-18 「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わ たしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。」

 

ヨハネ 16:16 「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」

 

ルカ 18:31-33 「さ てイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いて いるすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。』」

 

イエスはこの世を裁くために再び戻って来ると言った

マタイ 24:27-30 「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。...そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」

 

マタイ 25:31-32 「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、」

 

マルコ 14:61-62 「大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。『あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。』 そこでイエスは言われた。『わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。』」 

 

 

「世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。それで、もし私がそのことばの意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。あなたがたのばあいも同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。」

(第一コリント 十四章十~十三節)

 

神の霊の宿っているヨセフ(創世記四十一章三十八節)が、パロ王の夢の意味を解き明かしたように、異言の祈りも聖霊様が宿る時、意味を解き明かすことが出来ます。世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。異言の祈りにも意味があります。解き明かす賜物の人は通訳者と同じです。他人や自分の異言を冷静に聞いて、その意味を知性の言葉で説明できる特殊能力です。異言は愛を持って謙遜に祈ることが大切で、「人の異言」と「御使いの異言」の二種類があります。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」(第一コリント 十三章一節)

 

人の異言とは一般的な外国語のことです。ペンテコステの日、百二十人の弟子たちは聖霊様を受けるや否や学んだことのない外国語で自由に福音を伝えました。この能力は今も外国語を学ぶすべての信者に現れます。その場合の多くは、まだ語学が十分でないときにも一般的な会話はあまりうまく出来なくても、聖書の話になるとなぜかよく聞こえ、また語れるという賜物です。さらにこれらの人は語学習得も非常に早いです。

一方、「御使いの異言」もあります。自分では祈っている言葉の意味が解らないけれど、すらすら出てくる特殊な祈りです。使徒パウロがコリント教会に

「異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。」

こう命じているのは、この「御使いの異言」についてです。解き明かす手段も異言を聞いた後、知性の言葉ではっきり「この祈りはこういう意味です。」と語る解き明かしもあれば、夢や幻を通じて意味を示される手段もあります。前者の場合は心の思いを通じて来るのが大半ですが、直接の実際の知性の言葉で現れる場合もあります。

 

私は以前、ある男性と地下鉄のホーム出入り口で伝道用トラクト配りに出かけた際、まずは車内で一緒に異言でとりなし祈りました。その際、私の異言の祈りが突然、ある人の名前を繰り返し呼ぶ祈りに変わりました。なぜこの人の名前が繰り返し私の唇から出るのか不思議に思いながら、祈りが終わり兄弟と共に伝道目的で地下鉄ホーム出入り口に立ちました。すると五分ほどすると先ほど私の口から名前が繰り返し出ていたその人の父親が車でそこにやってきました。話を聞くと迎えに来たのだと言っていましたが、私はこの息子の安全のために祈らされたのか?あるいはこのような霊的な不思議な世界にもっと目が開かれるよう聖霊様が体験学習を与えられたのだと思いました。

 

また、私の知り合いの整骨院医師は事業が行き詰まった時期に異言で祈ると、その祈る自分の声が耳元で「はり、はり、はり、鍼」と聞こえて、そこにヒントを得てその後、針灸治療院に事業変えをして現在はビルを建てるほど大成功しました。

「兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。」  

(第一コリント 十四章二十六~二十七節)

 

ある時、夜の祈り会でこの御言葉に基づいて、皆で異言で熱く析った後、全く静まって異言の解き明かしを求めて祈りました。私は当時まだ救われて間もない頃で、一人の祈り手として黙って座っていましたが、先輩の祈りの導き手の兄弟が導くままにこう言いました。

「誰か異言の解き明かしが賜物としてくだった方いませんか?心に示される方はぜひ大胆に証ししてください。」

さらに十分間ほどの真剣な沈黙が続きました。すると一人の姉妹が、目を開けて謙遜にゆっくり語り始め、皆が注目しました。

「あの。今、私は幻をずっと見ていたのですが、話してもいいでしょうか?」

「ぜひ、どんなことでも示されたことがあれば、証ししてください。」

「実は、綺麗な川を見ていました。とっても綺麗な流れで、その流れの中にはとても綺麗な魚がたくさん泳いでいました。…しかし、もう一つの川も流れていました。それはとても汚い真っ黒な、どぶ川でその中には何か汚い魚が泳いでいました。」

そこまで話すと姉妹は何かこれ以上は話すべきか否か悩んでいるようでしたが、決意してすまなそうに話を続けました。

「そして、申し訳ないのですが、そのどぶ川の中に入っている人がいました。」

祈りの導き手の兄弟が興味深く質問しました。

「それはどんな人ですか?」

「はい。それは泉兄弟です。それともう一人いるようですが、よく分かりません。」

これを聞いて私は内心「ドッカーン!何で私が?」と思いましたが、考えるとすぐにその意味がわかり、これは確かに聖霊様による異言の解き明かしの啓示であると確信するに至りました。というのはちょうどその日のことでした。いつものように私は教会内で暇をもてあそんでいた兄弟を連れて街に出て行き、空いた時間を生かして路傍伝道していました。ある街角に来るとアンケート用紙を手に持つ調査員のふりをした統一原理協会の信者である若者が彼らの勧誘活動をしていました。そこで私は熱心に彼らに救い主イエス様を宣べ伝えましたが、一向に救われません。そこで言葉の限りを尽くして伝えたのに変化がないので、この異端者である青年がとてもかわいそうに思い、その場で思いっきり抱きしめて逃げられない状態で一方的に熱く涙でお祈りしてあげました。数分の熱い祈りの後、私が目を開けて両手を開いて開放してあげると目の前の青年は相変わらず冷静で変化なく、救われていませんでした。そこで私は失望と落胆を胸にこらえて疲れきって教会に帰りました。この夜の祈り会での異言の解き明かしは、私にとって革命的なメッセージでした。その意味は異端者ヘの集中伝道は私には御心でなかったのに、熱心あまってあまりに多くの異端者たちに関わっていた自分に気付かされました。それ以降、いままで異端者伝道にかけていた時間と労力を一般の特別宗教を持たない人たちに移行しました。するともっと簡単に人々が教会に導かれるようになり伝道の本調子が戻りました。なるほど異言の解き明かしは重要な賜物であるとここに教訓を得ました。

 

「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。主は私に答えて言われた。幻を書きしるせ。これを読む者が急使として走るために、板の上にはっきり書きしるせ。」(ハバクク二章一節~二節)

 

預言者ハバククは一方的に祈っただけでなく、祈りの答えをしっかり待ち望みました。異言の祈りができる方は祈った後、その解き明かしも求めてください。もしや聖霊様からの貴重な語りかけがすでにそこに準備されているかもしれません。

 

「異言を話すことを禁じてはいけません。」異言の祈りは聖霊様の力強い注ぎを解き放つからです。長時間祈られる著名な牧師たちの多くの祈りは異言です。知性ではどうしても一時間位しか祈れませんが、異言を用いればさらに長く深く祈れます。そこに解き明かしも加えて求めれば、もっと聖霊様に満たされた時を過せます。

「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。」(第一コリント 十四章十八~十九節)

 

使徒パウロは史上最大の伝道者ですが、その秘訣は異言祈祷であり、彼は誰よりも多くの異言を話すことを神様に感謝していました。しかし、教会ではさらに役立つ知性を用いた「五つのことば」があると言います。ダビデは五つのなめらかな石の一つで巨人ゴリヤテを倒しましたが、それは、イエス様を信じると与えられる「五つのことば」の武器です。これらのうち一つでも当たれば素晴しいです。「五つのことば」を語ってみましょう。

 

イエス様を信じれば・・・

第一のことばは「新生の福音」です。罪赦され生まれ変わった神様の子供になれます。

第二のことばは「聖霊様の福音」です。助け主なる聖霊様に支えられた誘惑と悪魔に打ち勝つ清い生き方が出来ます。

第三のことばは「癒しの福音」です。イエス様の打たれた打ち傷で霊・魂・肉の病が癒されます。

第四のことばは「祝福の福音」です。呪いから解放された物質的にも豊かな人生が与えられます。

第五のことばは「再臨の福音」です。やがて来られるイエス様の空中再臨の時、一挙に空中に引き上げられながら天国の新しい復活の体をいただき、永遠の天国にも入れます。

アーメン。使徒パウロは教会では指導する場所、という意識の中で福音のすべてを語り、隠れたところでは多くの異言の祈りに長い時を費やしたようです。

 

ストレスの多い現代社会はいよいよグローバル化の流れの中で海外を意識しながら複雑になっています。特に先進国は日々躍進する国際市場に即した法整備が急務とされ、各種の既存規則自体が時に現状と将来の経済発展を妨げていることも多くあります。

聖書はこのような時代を預言するかのように、疲れた現代人を癒す御言葉をかねてから与えています。

「まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる。主は、彼らに「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。」と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。主は彼らに告げられる。「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。」(イザヤ二十八章十一~十三章)

これは異言の祈りについての教えです。

 

「異言」の祈りとは、疲れた魂に確かな「いこい」と「休み」を与えます。異言で長時間祈りこんだ後に本来の経済活動に身を投じると平安な落ちついた心が思考の土台になるため、多くの優れた創造的アイディアと諸間題解決の英知が与えられ、もっと効率よく多くの高成果を上げることが出来ます。心に「いこい」と「休み」がないままでただ闇雲にあくせくしても事はうまくいきません。

 

栄華を極めたソロモン王は言いました。

「競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。」(伝道者の書 九章十一節)

すべての人が人生の只中で成功できる時と機会に出会います。そのときにうまくチャンスをつかめる冷静な判断力は落ちついた心から生じます。心に「いこい」と「休み」を持つ人こそ本当のビジネスチャンスを正確に見きわめてつかむことができます。

昔の人が「あわてるものはわらをつかみ、冷静なものはあわをつかむ。」と言われている通りです。

 

経済活動のみならず、すべて優れた芸術作品、小説、絵画等は冷静沈着な心から始まります。多くの若者たちが優れた才能を持っているのに心が落ち着かず、放蕩に傾く為、学業にいそしめず、重要な時期に将来の道を自ら閉ざしていることは悲しいことです。仕事も学業も競争も戦いもすべては、冷静で平安な「いこい」と「休み」を心に満たすことから始めなければなりません。そのためにこそ疲れ荒みがちな現代人の心をやさしく包んで癒す異言の祈りが重要なのです。異言でよく祈る人はいつも冷静で大きなミスを回避できます。異言でよく祈る人は聖霊様の導きをよく知るため、無駄な行動をなくせます。

 

シヌアルの地で二ムロデをリーダーに仰いでバベルの塔が建築されていたころ、全地は元々一つのことば、一つの話しことばで神様は人間を祝福されていました。ところが父ノアから呪いを受けたハムの子孫ニムロデとその仲間たちが集まってかつてのノアの時代のような大洪水が起きても上に逃げようと高い塔バベルを建築し始めたこと自体、全く神様の御心にかなわないことでした。なぜなら神様は、すでに

「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(創世記九章十一節)

と仰せられたのに約束の御言葉を真っ向から信ぜず、加えて

「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」 (創世記九章一節)

とも仰せられたのにバベル建設は神様の命令の御言葉にも逆らった、自分たちが全地に散らされないよう、地に満ちるのではなく一箇所に集まる反逆行為そのものでした。そのため御心を痛められた神様は彼らのことばが互いに通じないよう、一つのことばを世界中の国ことばにまで粉々に砕いて混乱させました。ことばが互いに通じなくなったバベルの住民は結局、建築を断念し強制的に地の全面に散らされ、町を建てることをやめましたが、実に、このときから私たちが今日使う世界中の各種のことばが生まれたのです。例えれば元々一枚だったことばのお皿が砕かれて、その破片の一部分が日本語であり、韓国語であり、英語であるという具合です。私たちは不完全な砕かれた破片の言語を持って対話しています。そのためその不完全な原語ゆえの対話から生じる誤解や意思疎通の不十分さなど古今東西、ことばに端を発する諸問題は絶えません。個人のみならず、時にはことばのミスが国家間の戦争にまで発展するケースさえあります。わたしたちの与えられたことばが創世当初の完全に思いを伝えられる完全な一つの話しことばよりはるかに劣っているからです。では、どうしたらこのような意思伝達不十分なことばに端を発する誤解や説明不足等を解決できるでしょうか?この答えが異言の祈りなのです。

 

異言の祈りは私たちには理解の出来ないことばですが、不思議な霊的一致をもたらします。異言で長時間祈ると統一された同じ聖霊様による思いに満たされ、不思議と仲良くなり、愛情が満ち、対人関係の不和葛藤を解消してしまいます。そしてことばに表現しがたい複雑な思いさえ、祈った後に語ってみると、うまくことばがまとまって相手方にもじゅうぶん事の趣旨が伝わる不思議がともないます。夫婦間、親子間、友人間、上司と部下、恋人同士どのような関係であれ不思議と異言で祈った後は仲良く和みます。知性の言葉が通じない外国人でさえ異言で祈った後はすぐに仲良くなれます。

異言の祈りは聖霊様が臨まれ霊的に一致できるからです。霊が清く一致すれば、後は精神的にもすぐに追いついて仲良くなれます。

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」(ローマ八章二十六節)

 

この賜物は対人関係の祝福だけでなく、神様への祈りとしても私たちの思いがまっすぐ天国に届く祝福にもなります。また、私たちの思いを知られた神様は速やかに必要のすべてを把握して助けの御手をのべてくださる、これが異言の祈りです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

(ローマ八章二十八節)

 

 教会で小さな子供を持つ母親たちが我が子の泣く声を聞くと、雑踏の中でもすぐにその泣き声を聞き分けて、走って行くという光景は何回見ても不思議です。無関心な一般の人には同じ種類の子供たちの声に聞こえるものですが、母親だけは違います。わが子への特別な愛があるからです。

さらに驚異は「オギャー」と泣いているその声の微妙なトーンの変化をとらえて子供がおしめを取り替えて欲しいのか、お腹が空いているのか、どこか体調が悪いのか、おおよそ見分けてしまうのは愛の不思議です。

私たちが神様に捧げる異言の祈りも同様の愛の不思議があります。私たちには人の異言の祈りも自分の異言の祈りもいつも同じように単調に聞こえるものですが、私たちに深い愛と関心を寄せておられる神様は全く違います。その霊的トーンの微妙な変化をとらえ、私たちの間題が何であるか、悩み苦しみが何であるか、その必要としている祈りのリクエスト一切が何であるか等を見事に聞き分けて瞬時に完全理解してくださるのです。まさに神様の愛の御耳の不思議です。

 

聖書にはイスラエルとモアブ間の戦争で、預言者エリシャの命令に従ってみぞを掘った翌日、上流のエドム地方の川が大氾濫してイスラエル陣営に流れ込み、その地が水で満たされた状態を、翌朝早く起きたモアブの兵士たちが太陽が水の面を赤く照らしているので

「これは血だ。きっと王たちが切り合って、同士打ちをしたに違いない。さあ今、モアブよ、分捕りに行こう。」と大きく勘違いして、戦略を誤り、盲目的にイスラエルの陣営に突入してひどく敗戦した記録があります。(第二列 三章)。

人の目は時に錯覚します。目の異変です。

また、その後、同じくエリシャの時代、(第二列 七章)では、町の門の入り口にいた四人のツァラアトに冒された患者たちが思い切って立ち上がり、アラムの陣営に歩いていきました。彼ら四人は空腹なホームレスなのでお互いよろめきながら、こう言いました。

「おい、押すなよ。転ぶじゃないか。」「ドテッ!」

「やれやれ、俺が起こしてあげよう。おっと、俺も抱き起こす力がなくて一緒に転んでしまった。」「ドテッ!」

「あはは。」

なんて言い合っていると、なんと彼らの会話や、よろめき転ぶ音が大気の中で異常に変化して、遠くアラムの陣営内では奇蹟的にざわめく大反響となって聞こえていました。

 

そのころ「主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、彼らは口々に、「あれ。イスラエルの王が、ヘテ人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲うのだ。」と言って、陣営をそのまま置き去りに、いのちからがら逃げ去った」!

人の耳も時に錯覚します。耳の異変です。確かに目や耳の錯覚や異変は実生活上、困りますが、ここに大いに体験してよい不思議な愛の錯覚と異変があります。

その現象は私たちが信仰でカルバリ山の十宇架をあおぐ時、クリスチャンに起きます。群集がののしり拒む中、たったお一人、愛にかり出され、愛の力で逃げることもせず、罪もないのに罪人の一人に数えられ、その過酷な死に立ち向かった勇敢な神様のひとり子イエス様の御姿が美しく輝いて見えます。

 

血に染む貼り付け道具の十字架さえ愛おしく、美しく誇らしげに見えます。本来は恐ろしいローマ軍の血なまぐさい歴史中、最悪の公死刑、罪人たちがもっとも恐れる残虐な死刑道具なのに。

この神聖なる聖霊様の異変を受けた人々は幸いです。すでに救われた神様の子供だからです。あなたは荒削りの十字架をいかに見つめますか?もし麗しく愛おしく見えるならば幸いです。しかし、もしそうでないならば早く!この不思議な愛の錯覚と異変体験をしてください。十字架のイエス様を見つめて真剣にこう祈りましょう。

「主イエスよ!異言がともなう聖霊のバプテスマ体験を私にも与えてください。

アーメン。」

 

「イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあひ、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

するとイエスは、彼に答えて言われた。バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」

(マタイ十六章十三~十七節)

 

イエス様が一体誰であるかを知ることは重大です。ペテロのように「生ける神の御子キリスト」であると正しい信仰告白ができれば天国にまで入れます。しかし単なる歴史上の聖人や宗教家、教師、預言者レべルと考えているなち危険です。

 

ヘロデ王はイエス様のことを自分が過去に殺したバプテスマのヨハネのよみがえりだと考えて、ひどく当惑していましたが、人は誰でも悔い改めていない罪悪があるとその領域からイエス様に対する正確なイメージが狂い、霊の見分けができなくなります。

ヘロデ王ほどひどい罪を犯していなかったペテロはイエス様を正しく評価できましたが、このことを誉められたペテロは未熟者なのですぐに有頂天になり、心にスキができました。そのためイエス様によって十字架の死と復活に関する重大なメッセージが語られた直後、心のスキに入り込んだサタンがうまくペテロの口を使ってもっともらしく不正をしゃべりました。

「イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」(マタイ十六章二十二節)

事もあろうに十字架を「そんなこと!」呼ばわりして軽蔑したサタンですが、一見この発言はペテロらしい人情味あふれる親切な言葉にも聞こえます。だまされてはいけません。サタンは巧妙な偽りの父です。人情に訴えながらその実、全人類の唯一の救済策、十字架を否定する悪い敵です。

イエス様はこの時、サタンにだまされることなく完璧に背後の霊を見分けて仰せられました。

「イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

(マタイ十六章二十三節)

人が霊の見分けなくサタンにだまされる時は、決まって神様のことを思わないで、忘れているときです。

サタンは神様より目に見える人のことや世俗の事柄ばかり意識させ、真理から目をそらさせようと誘惑します。だから使徒パウロは命じました。

「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」(テモテ第二 二章八節)

 

霊を見分ける力は聖霊様から与えられます。どんなに熟心に走りこんでも道を間違えていたらすべての労苦が無駄になるように、だまされてサタンの側について行ったら死後に気付いた時、すべてがとき遅く、台無しです。霊を正しく見分けないといけません。

「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」(ヨハネ第一 四章二~三節)

 

使徒パウロは占いの悪霊につかれた女奴隷が連日、つきまとっては伝道を妨げるので、背後の霊を見分けて女から悪霊を追放しています。

「彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。」 

(使徒十六章十七~十八節)

ここで注目は、女の語った言葉が、正しく聞こえ一見、伝道の協力者のようでもあることです。

「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」

アーメン?しかしその実、この言葉は伝道を妨げる占いの悪霊から出た言葉で、見分ける特徴は悪い木は必ず悪い実を結ぶように結果として時間が経つと結実で現れます。幾日も叫び続けたという異常な熱心が結果、パウロを困り果てさせています。悪霊のすることはいつも、獣にしっぽや牙があるように、何か異質でおかしな点が見え隠れしています。

もしパウロに霊の見分けなく女を同労者に歓迎していたら、この宣教旅行は失敗に終わったことでしょう。

同様に。ユダヤ人の魔術師エルマのケースも紛らわしいです。「エルマ」は本名で意味が「魔術師」、確かに名付け親か育て親等、親から子へ呪いは下ったようです。その名の通り期待を受けて同じ悪霊を受けて魔術師になった「エルマ」でしたが、彼は、はなはだ迷惑な紛らわしいもう一つの芸名を持っていました。なんと「バルイエス」です。(使徒十三章六~八節)

聖書にはバル・ナバとかバル・テマイとか出てきますが、バルは英語で言うSON、サン、息子です。そのため芸名「バル・イエス」は「イエスの息子」という意味です。あの有名人ナザレのイエスの評判にあやかり、何か実の隠し子がいたかのように、御名を利用して人々を集めては、だます魔術師の手口です。

ですから外見や優れた肩書きや職歴、学歴などの名前にだまされてはいけません。

本質を見分けることが大切です。人はうわべを見ますが、神様は心を見ます。 

 

もう一人、究極のあざむく者を暴露します。それはイスカリオテのユダです。彼は十二弟子の一人に数えられ会計係まで任されていましたが、その実、献金泥棒でした。イメージではユダは単純な愚か者ですが、実に意外やキレモノだったようです。まず、献金係の奉仕ですが、同じ弟子に元々会計の専門家である元、取税人マタイがいたのに、彼を差し置いての大抜てき。ある程度、数学的な計算が早い人でないとできない奉仕です。また、他の十一弟子たちはイエス様がローマからユダヤ人を解放してくれる国王になってくれることを最後まで期待していました(使徒一章六節)が、ユダだけは一人違います。

イエス様は天国を伝える宗教家、地上で王にはならず、王国も築かない、期待の革命家ではないと早くから悟って見切りをつけ、裏切りに向かっていたのです。

一方、イエス様は邪念に乱れたユダの心の状態を知られ、その内なる霊を見分けて「悪魔」 (ヨハネ六章七十節)と言われていましたが、他の弟子たちは全くこれが分からず、裏切り者は一体誰なのかと互いにせん索しているほど鈍い人たちでした。そこで誰が裏切るのかという質問に答えた主は

「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」

と言われ、皆の前でユダに与えたのですが、弟子たちはすでに全面的にだまされて、ユダを信頼しきって、誰一人悟るものはいませんでした。ユダは非常に狡猾な男です。

「ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え。」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。」(ヨハネ十三章二十九節)

さらに詳細に調べると、ユダはベタニヤ・マリヤが高価なナルドの香油を石膏のつぼを割ってイエス様に直接注いで捧げたとき、献金泥棒ができなかったため女をひどく迫害しましたが、その時、ユダは砕かれた香油の香りから瞬時に計算して、この香油なら「三百デナリ以上」(マルコ十四章五節)と価値を特定しています。今も香水は知る人が知るもので、私なら目の前でシャネルが砕かれようが、子供の安い香水がこぼれようが値段は分かりません。ユダはある程度、香油の価値相場を知る上流階級の人だったかもしれません。

さらに使徒の一章で自滅したユダにとって代わる使徒を決めるくじ引きをした記録では、詩篇でダビデ王がユダについて預言されていた御言葉から引用されていますが、これはよく読むとこのように続いています。

「彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。彼の子らは、さまよい歩いて、物ごいをしますように。その荒れ果てた家から離れて、物ごいをしますように。債権者が、彼のすべての持ち物を没収し、見知らぬ者が、その勤労の実をかすめますように。」 (詩篇 百九編八節)

ユダには妻がいて、子供たちか複数人いて、持ち家があったようです。ある程度の上流ではないでしょうか。しかも名前の意味は「ユダ」、神様への「賛美」です。ユダヤ人といえども他の弟子たちの名前からも分かるように、すべての親が信仰的な名前を子供につけているわけはありません。このことから総合的に考えると、ユダの家系は今で言うところの信仰深いクリスチャンホームではありませんか!

しかし、人間的な意味でいろいろ持っていた。ユダも霊が悪ければ全く役立たずの悪魔です。

ユダに関わる余談ですが、これはあまり恵まれない話と覚悟で致しますが、イエス様を裏切って後、自殺したユダについて著者マタイは銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに投げ返してから「そして、外に出て行って、首をつった。」(マタイ二十七章五節)

と記録していますが、同じユダについて著者ルカが書いた使徒の働きではこう記録しています。

「(ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。)」 

(使徒一章十八節)

首を吊ったら通常そのまま死体はぶら下がっているのに、ここでは落下と証言しています。どういう意味でしょうか?ある人は、がけっぷちに木が生えていて首吊った後に枝が折れてまっすぐ落下したと言いますが、信じられません。既に恵まれない素材の話ですね。

しかしなぜ?私はこう考えます。まずはマタイの証言どおり首吊り。その後はイエス様が始めて郷里で伝道されたときに拒まれ、崖から落とされそうになったようにユダヤ人には聖絶思想があります。汚れたものを聖なる都エルサレム城内から除くという発想です。

「これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。」 

(ルカ四章二十八~三十節)

そのためイエス様を裏切ったユダの死体は汚れの極みとして木の上にいつまでも城内に置いておけない、そこで弟子たちによって人為的に崖から捨てられ、ルカの証言どおりに体はその時、崖下で二つに砕かれたのではないでしょうか。霊の見分けなくサタンに着いて行くと後が怖いです。

サタンはおもに人をだまして自分に仕えさせようとしますが、人に働けるのも何かのチャンスがなければできません。そのチャンスは人の犯す罪や恐れ、心の傷や呪いなどです。

 

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』(マタイ七章二十二節)

 

主イエス様の再臨までの間に大勢のニセ預言者が世に現れる事が書かれています。彼らは預言活動のみならず、悪霊追放、奇蹟も「たくさん行なった」と自称する者たちです。しかしイエス様の御名を利用して霊の世界に立ち入って、何らかの不思議を現しても聖霊様による新生体験がなければ神様とは無縁な奉仕者です。

 

ユダヤ人の魔よけ祈祷師、スケワの七人息子たちは、ためしに悪霊につかれている者に

「パウロの宜べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言ってみたところ悪霊が答えて。「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどもおまえたちは何者だ。」と言って逆に襲い掛かり彼らをひどく追い散らした記録があります。

 

イエス様の御名を使ったニセ預言者とは、今日、教会の中に忍び込む占いの悪霊による活動です。使徒ヨハネは警告しました。

「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」

(第一ヨハネ 四章一節)

ここに「にせ預言者がたくさん」と記されていますが、特に聖霊派の教会は最高に優れていますが、基本的に異言も預言も認めるため、いよいよ吟味が大切です。

黙示録十九章十節では

「神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」

と記されているため、イエス様を伝道するクリスチャンは誰でも世に対する小さな預言者的存在です。しかし聖言様による直接の語りかけを専属的に語る「預言の賜物」を持つ奉仕者もいます。イギリスでダイアナ妃が暗殺される直前にあるクリスチャンのグループに臨んだ預言がありました。

「今からイギリスじゅうが美しい花でいっぱいになります。しかしその花は喜びの花ではなく悲しみの花です。」

結果として事後現場に手向けられた無数の追悼の花束を彷彿させられる預言でした。

 

旧約時代は預言を文章に残さないで預言活動したエリヤ、エリシャ、逆に預言を文章に残したヨエル、イザヤ、エゼキエル、エレミヤ、ダニエル等が専属的な預言者ですが、預言の現れも口頭で語るモーセのような預言者もあれば、エゼキエルのような幻で示される預言者もあり、エレミヤが公認した夢で示される預言者もいます。

「夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。--主の御告げ。」(エレミヤ二十三章二十八節)

 

サムエルがサウルに今から出会うと預言した預言者の一団は賛美の行進と共に預言活動を展開していましたが、(サム第一 十章五節)エリシャも賛美の只中で預言がよく下ることを知り、実践していました。

「しかし、今、立琴をひく者をここに連れて来てください。」立琴をひく者が立琴をひき鴫らすと、主の手がエリシャの上に下り、彼は次のように言った。「主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』 (列王第二 三章十五節~十六節)

 

預言の賜物を持つ奉仕者はもし御心を確信したならば、誰が何と言っても大胆に勇気を持って語らなければならず、もし恐れ退くならば正しい預言者さえ惨めに敗北してしまいます。エレミヤの時代、イスラエルのバビロン捕囚を預言したエレミヤは迫害され、「死刑に当たる」とまで言われて、窮地に立たされたとき、変わらず大胆に確信を持って語り続け、その楊を退かず立ち続けたため、首長たちとすベての民は、祭司やニセ預言者たちと協議した上でエレミヤには手を下さないことにしましたが、同じ頃、エレミヤと全く同じ内容の預言をしていたウリヤは王の反感をかって命が狙われたのを聞くや否や恐れてしまい、エジプトへ必死に逃げて行ってしまいました。そのため、その後のウリヤ預言者の運命はエレミヤとは大きく正反対に分かれました。

「彼らはウリヤをエジプトから連れ出し、エホヤキム王のところに連れて来たので、王は彼を剣で打ち殺し、そのしかばねを共同墓地に捨てさせた。しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されないようにした。」 

(エレミヤ二十六章二十三~二十四節)

 

小犬でも私たちが恐れて逃げ出したら、調子にのって「キャンキャン」ほえながら追いかけてきますが、ぐっと目をにらみつけたら小犬のほうが逃げ出します。もっとも動物はかわいがらなければいけませんが。預言者は何者からも退かない勇気が必要です。

 「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」

(ヘブル十章三十九節)

 

第二次世界大戦中、戦地で実弾に打たれて死傷したアメリカ兵は数十万人とも言われますが、それ以上に本土決戦のなかったアメリカ大陸で日本軍の奇襲を恐れながら心臓発作で亡くなった一般人はその数倍の百万人以上と言われています。これは無用な恐れがどんなに有害であるかを物語っています。預言者なら恐れないで大胆に預言しましょう。

 

聖書預言には言葉なき預言すなわち、無言の環境自体が何かを語りかけている預言が多数あります。

例えばイエス様がベツレヘム(パンの家の意味)で宿屋なく、家畜小屋でお生まれになった時、家畜の食卓の飼葉おけに寝かされましたが、イエス様は世には受け入れられないけれど、確かに謙遜な「命のパン」であられ、石製の棺おけのような形をした飼葉おけの中で、包んで行動を制約した産着の布とは、もともと死者を一時安置した家畜小屋に備えてあった死者を包む為の死の衣であり、まさにまぶねに眠る清いみどり子イエス様の御姿は、将来、罪なき清いイエス様が十字架で釘打ちという死の衣に包まれて、行動が制約されたうえで死の眠りにつかれることを産まれた直後から暗示的に預言していました。

また、ユダにサタンが入って裏切り目的で最後に外出したとき、環境もユダの霊的暗黒同様、すでに暗い夜でした。イエス様の再三の警告ともなう預言を拒み続けた。ユダにとって、もはや生きた知性の言葉ではない無言の夜の暗闇だけが心に訴えかける哀れみの声なき最終預言者でした。

「おいユダ!つまずく闇夜に、なぜイエス様を離れ、何に誘われ、どこへ行くのだ・・・」

 

ルカ二章のシメオンや女預言者アンナのように幼子イエス様を腕に抱いたうえで、正確に生きた知性の言葉で未来を預言した奉仕者もいますが、珍しいケースで本人はそうとは知らずして預言している大祭司カヤパのような奉仕者もいます。

「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」(ヨハネ十一章四十九節~五十二節)

 

それゆえよく注意して下さい。あるいは小さな子供が、あるいはクリスチャンではない誰かが深い意味を知らずして神様の御心を預言しているケースも意外と多いです。

ある女性は預言と思いながら占いの悪霊をかぶっていたのですが、不信者の夫から

「お前のキリスト教信仰は何か間違えている。」

と言われて後に気付いたと聞きました。中には不信者の知り合いから強く勧められて信仰に入った人もいます。その際、彼ら勧める者たちが自らはそれと知らずして貴い預言者の使命を果たしていたといえるでしょう。ある牧師は信仰を持った切欠に少年時代あまりにも悪さをして罪深かったので、仏教徒の父親から

「お前!教会にでも行ってクリスチャンになれ!」と言われたのが切欠で本当に今、教会の牧師になった人も知っています。

 

本当の預言者は時に一般人が理解できない行動をとる事があります。

神様はホセアに裏切る背信のイスラエル人をなお愛し続けている神様の愛の心を実際に体験するよう裏切る不貞の遊女ゴメルを妻として迎えるよう命じられました。やがて二人の間に二男一女をもうけましたが、ゴメルは家出し、再び娼婦となって売られました。しかし神様はこの時までもこの女を買い取って家庭を再建するよう命じられました。ホセアにとって犠牲の大きい、まさに人生すべてをかけた献身的預言行動です。(ホセア三章一節)

 

エレミヤはやがてバビロン捕囚になるイスラエル人にその預言を実際に示す使命を受け、なわとかせとを作り、エレミヤ自信の首につけて預言するよう導かれました。一見、狂った預言者のようでしたが、悔い改めを促す神様の激しい愛の現れでした。

(エレミヤ二十七章二節)

 

エゼキエルにおいてはそれ以上に一般人が理解できない預言的行動に導かれました。それらの行動は私にはあまりにも深くて表現も出来ません。エゼキエル四~六章と十二章をお読み下さい。

四章では三百九十日、左わきを下にして横たわり、その後は四十日間、右わきを下にして横たわる行動。五章では鋭い剣で頭と、ひげをそり、その毛をはかりに量る・・・。

六章では手をたたき、足を踏み鳴らして、剣とききんと疫病とによって倒れるイスラエルの家の忌みきらうべきすべての悪に対して、『ああ。』と叫ぶ預言行動。

十二章では、エゼキエルの荷物を昼のうちに彼らの見ている前で、捕囚のための荷物のようにして持ち出し、捕囚に行く人々のように、彼らの見ている前で、夕方、引っ越すことによりバビロン捕囚の惨事を事前に示す預言行動。

このように神様はエゼキエルを導かれましたが、これらすべてはおのおの意味を持つ預言行動でしたが、ただ聞くだけではもはや心に留めないかたくななイスラエル人に聞くことプラス明確な視覚を通じて神様は御心を示し、エゼキエルの行動自体がイスラエルの家のためにしるしとされたのです。

「百聞は一見にしかず」とことわざにありますが、このように通常の人には理解できない預言行動が視覚ゆえ、よりいっそうの感銘を与え、深く考えさせ、時におぞましく、痛く心に刻まれる働きかけとして、エゼキエル以降、後の時代に究極的にもう一度だけ現れました。それがイエス・キリストの十字架の傷ついた御姿です!

多く語るより、ただ見上げようイエス様の十字架を!

これこそ神様から全人類へ御言葉プラス視覚を通じてうったえかける究極的最後の預言メッセージそのものです!そこから聞こえてきませんか?

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と

自己封殺

 

「それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。」

(マルコ五章五節)

自分を傷つける悪霊レギオンにつかれた男の姿ですが、同様の自殺未遂、自己卑下、自己虐待。自己拒絶、不健全な自己否定、自責の念、罪悪感など自分をいたずらに傷つけている人が多くいます。

モーセの十戒に「殺してはいけない。」とあるように自分自身にも自己封殺しないよう高価で貴い神様に愛されている特別な存在であるという意識を持って自らをいたわり自信を持って高貴に歩むことが必要です。イエス様を信じれば誰でも皆、聖霊様が心に住まわれる神様の貴い神殿になれるからです。

 

精神分裂

 

「さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。」 

(マルコ十六章九節)

 

深い病からの回復者こそ優先して徹底的アフターケアが必要です。この女は七つの悪霊から解放された人です。過去の人は医学的見地からは精神分裂症です。

このような人を最優先してよみがえったイエス様は再会しておられます。私は過去に精神病院を何件も訪問しています。そこにイエス様を信じたいと助けと救いを求める人々がいるからです。その流れの中で気付いたことがあります。厳しい刑務所のような管理された冷たい雰囲気の病院とアットホームな暖かい家庭のような雰囲気の病院の二種類がある。そして患者にも二種類がある。それは生まれつき先天的に知能が足りなくて入院させられた人や後天的に事故や病気、ショックによる後遺症で入院させられた人。それともひとつのタイプは悪霊にとりつかれて入院させられた人。前者の場合は病の癒し、心の傷が癒されるよう重点を置いて祈るべきであり、後者の悪霊による場合はどんなにカウンセリングしても現状維持の投薬を続けても効果はなく、ただ悪霊追放の祈りを受けるしかないということです。特に精神分裂のような重度の患者の場合は、家族の協力や信仰への理解もなければ難しい治療です。七つの悪霊がついたマグダラのマリヤさえも癒されたイエス様は知れば知るほど物凄い癒し主です。

 

アフターケア

 

「イエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。」(ルカ八章五十四節)

ここでも再発防止策は救霊後の御言葉、霊的糧による養育、聖書を読むことです。救われた後も愛でホローする姿勢が大事です。

 

ある男性は通勤時、自動車事故に遭い、接触時あと十五センチずれていたら命はなかっただろうとの現場検証を終え、全額保険適用で車は相手方の保険で買い換え、それなりの慰謝料を受けて一応の解決を得ました。この事故以来、奇蹟的に無傷で救ってくださったイエス様の恵みを知り、神様に感謝を捧げ、事故がきっかけに信仰が強くなり、以前にも増して頻繁に教会に来るようになりました。ところが、事故後十日目に突如むち打ちの痛みが現れ、更に事故後三ケ月間は精神的後遺症で恐れから車のハンドルも握れず、夜には度々大きな鉄のかたまりが自分のかたわらに落ちてくる悪夢に悩まされるようになりました。これは環境と体の癒しに心の癒しが追いついていない心の負傷が原因です。

軽度の病気や怪我は放置しても自然にも治りますが、重病や深い怪我は手術を受けないと自分では癒せません。癌のように自覚症状さえない危険な病気もあります。健康診断時にCTスキャン等ではじめて早期発見できるように聖霊様の癒しの奇蹟が大切です。

このように奇蹟を信じて祈りましょう。

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

(詩篇 百三十九編二十三~二十四節)

「そのとき、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」(ルカ八章三十八節)

 

悪霊が追放され、魂の救いを得たら、心のアフターケア(心の救い)も大切です。ゲラサ地方の男にとってイエス様の弟子としてフルタイムでお供することより、長年家族を離れ孤独な墓場生活ゆえ、失われた家族との愛の交流の回復が最優先すべき癒しでした。主の癒しの奇蹟の手段も様々です。

大木を抜いた後は、そこに土を正しく埋めないと危険な落とし穴にもなります。

「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。

「ほどいてやって、帰らせなさい。」(ヨハネ十一章四十四節)

ラザロ復活は人にはできない神様なるイエス様の領域の仕事でした。しかし墓の石を取り除けて、出てきたラザロを長い布から自由に解くことは人ができる領域の人のしなければならない仕事でした。できるところまではベストの努力をして、人間にできない神様の領域に奇蹟を期待しましょう。イエス様が人を救われ、私たちには彼らをほどく務めが託されています。救われたクリスチャンの心を取り巻く古い罪の習慣、反聖書的な文化やしきたり、間違った考えや異教文化の影響、占い的発想等から解放させるのが、私たちの務めです。もし、ご飯がなければお米が与えられるよう不作から守られるよう祈るのは自然です。しかしお米が与えられたのに「神様。ご飯を作ってください。」と祈るのは間違いです。それは人間のできる人間の領域の仕事です。自分で出来ることは自分でしましょう。学生ならテスト前日まで最大限の努力をして勉強しましょう。そしてテスト当日、体調を壊したり緊張して頭の中も答案用紙も真っ白ということのないよう、この領域は祈りましょう。

 

人目を避ける生活

 

サマリヤの女は通常の夕方の涼しい時刻に水汲みをせず、真昼の最も人のいない時刻をあえて選んで井戸に来て水汲みをするような人日を避ける生活実態でした。もし彼女の仕事が遊女と呼ばれる売春婦だったなら罪責意識ゆえ世間を回避したでしょうが、あるいは本当に純粋で五人の男性にだまされ続けて裏切りと連続失恋体験者だったならば、対人恐怖と心の傷はとても深かったはずです。

このような姉妹も永遠の夫なるイエス様に出会ってからは、サマリヤの住民を導く大衆伝道者となり、表だって用いられましたが、その大衆伝道者と生まれ変わった奉仕の只中にも主の配慮ある癒しの奇蹟がありました。サマリヤの女のように過去に五人の男と結婚、離婚を繰り返して、今は六番目と共にいるような、とかく隠れた闇の生活をしていた人こそイエス様を信じた救霊後、むしろ大胆、積極的に人前に出ることが本人の癒しです。

ザーカイのように不正の富を得ていた人こそ救霊後、むしろ大胆に施すことです。

パウロのような迫害者こそ誰より主を愛する熱心な伝道者になることです。

弱い者は勇士だと叫び、貧しい者は富んでいると叫び、すべて過去の行いの正反対をするときにその行い自体が私たちを正常な位置へ戻す中立位置の癒しの奇蹟となります。沢山の奇蹟の中でも一番優れていることは人が救われ、かえられる奇蹟です。

 

 

奇蹟を行なう力

 

初めの人間アダム創造から奇蹟の連続である聖書ですが、エバが造られた時、アダムが寝ている間に連れて来られました。その際、初めからエバは大人の成人女性でした。それが分かるのはアダムの言葉からです。

「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」(創世記二章二十三節)

 

決してこれは幼稚園児の会話ではありません。知的かつ美的センスもある大人の言葉です。では、少女エバはどこに行ったのでしょうか?赤ちやんエバはどこに行ったのでしょうか?エバは初めから完成された成人女性として結婚適齢期の成熟した状態だったのです。神様のなさる奇蹟は、このように時間と空間のプロセスを一切超越して起きます!

 

新約時代もそうです。何もない荒野で空腹な群衆に対してイエス様が五つのパンと二匹の魚を裂いて増やされた奇蹟の際、ここでも時空のプロセスを超越して無から有を創造されました。通常ならパンは料理のおばさんが大麦をこねて長時聞発酵させて、焼いて完成のはずですが、イエス様の御手の中では瞬時に完成です。魚も通常なら漁師のおじさんが網で捕らえて、並べて、天日で長時間、千して乾いたら、さあ!完成です。

ところがイエス様は料理のおばさんも漁師のおじさんもいないのにおひとり、奇蹟をなされました。まさに死から命。闇から光。無から有を造られる神様をほめたたえます。

 

ひきこもり

 

また、聖書では十一弟子たちがユダヤ人からの迫害を恐れてマルコの二階部屋で戸を閉めて鍵をかけて集まっていた時に、よみがえられたイエス様が扉をすり抜けて入って来られました。

「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われ、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(ヨハネ二十章二十一~二十三節)

やがて、ペンテコステの日に聖霊様を受けた弟子たちは、新たにかえられて大胆に部屋を出て明るい光の下、路傍でも伝道するようになりました。

 

ある男性はひどいひきこもりでした。元々、現役で国立大学に入学するほど勤勉で優秀でしたが、ある時期から心の病となり、誰が来ても白室の扉を閉めたまま鍵を開けない。大学も勝手に中退して、実家の自室にこもりっぱなし。両親にもおばあさんにも絶対、扉を開かない、こんな状態が長く続いていました。唯一の家族とのコンタクトはいつも部屋の前に置いておいた食事がいつの間にか食べ終えて空の器だけが廊下に返されていることでした。父親はこの一人息子を自分の経営する事業の後継者にしたかったのですが、期待は外れ、今では希望なく、なかばあきらめ状態でした。

そんな環境に導かれた小さな私にできることはただ祈ることだけでした。招かれた彼の実家の部屋の前で鍵のかかった扉に手を置いて

「イエス様。どうかこの若い兄弟をあわれんでください。部屋から出て、光の下で自由に暮らすように助けてください。」

その後、滅多に出てこない彼が部屋から出てきたことをチャンスとして、私は急いで軽く抱きしめながら頭に手を置いて解放の祈りを致しました。

「イエスの御名によって、ひきこもりの力を打ち砕く!」

それからのことです。彼は突然、冬眠から覚めた生き物のように外に出て、知り合いのところで働くようになり、その後は父のところに帰ってきてこう言いました。

「お父さん。私を雇い人の一人にして、つかってください!」

この言葉と態度の豹変ぶりに驚いた両親が後日、こう語りました。

「こんな立派な言葉と知恵、一体どこで覚えたのだろう。」

 

私はその報告を聞いてすぐに分かりました。

「その言葉は聖書の放蕩息子が父の待つ家に帰るときに語った言葉だ。」

今では父親の仕事を助けながら毎朝早くからまじめによく働く、ひきこもりから完全に開放された青年になりました。イエス様が心の室内に入って来られるとすべてが明るく変わります。

 

泉パウロ 純福音立川教会 - YouTube

今日の水曜礼拝の参考資料です。

いやしの賜物

 

癒しは病気自体が体の不都合から生じる自然な病気か、悪霊が働いた結果から生じたものかによって癒しの祈りも変わってきます。悪霊が病の霊として体内に住みついている為に継続的な病人である場合、この種の病の霊を追い出せば癒しが起きます。しかし自然的な病気の場合は悪霊を追い出す祈りでは決して癒されず、むしろ病気の患部に聖霊様が触れてくださり体自体を回復してくださることで癒しが起きます。断食中、総合検診のように隠れた病が特に痛み、早期発見できるケースもあります。すべての病気が病の悪霊によるものではなく、すべての病気が体の不都合によるものでもありません。見分けることは非常に難しいですが、経験から分かることは祈った時に患者の反応で分ることがあります。

 

ある姉妹は長年足が痛く本人は慢性的なリューマチ持ちだと言っていました。病院でも同様の診断と処方箋が出されていましたが、現代医学では直らず、あるとき教会でお祈りすることになりました。実は彼女はその時まだ信仰を持っていなかったので、勧められるまま少しでも良くなればご利益という感じで祈りを受けましたが、こちらの祈りは真剣です。すると彼女の痛みあるひざの辺りの皮膚が突然ピンポン球のようにポコッと腫れ上がり、驚いたことに軽く手を置いて祈ったその手を逃れようとしているかのように動き始めました。そこに数名の目撃者がいましたが、手を伸ばして腫れ物を追いかけるとそのままつま先まで足の皮膚の上を動いて最後にすっと何かが抜けたかのように出て行き、その瞬間、彼女の長年の痛みは癒されました。このようなケースは聞違いなく悪霊が入っていた結果生じた病気だったのです。

そう考えるとあの病の悪霊は過去何年間もこの姉妹のちょうどあのひざの辺りに小さくなって住んでいたのだろうか?考えさせられます。しかしその回答は聖書によるとそうなのです。

「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。イエスは、その女を見て、呼び寄せ、あなたの病気はいやされました。」と言って手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。「この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」 (ルカ十三章十~十六節)

とあります。サタンはなんと悪趣味でしつこいものでしょうか。十八年間もよそのおばさんの腰の中に部下の病の霊を不法占拠して住まわせていたのです!他にすることないのでしょうか。一人の女性の腰の中に朝夕つきまとうストーカー以上に十八年間も住んでいた!私なら絶対嫌です。サタンは残酷で精神異常で気違いです。

 

ツロとシドンの地方でイエス様が癒されたカナン人の女の娘は小犬のように無邪気な少女です。しかし悪霊とは小さな少女だからといって容赦せず残酷で無情にも

「ひどく悪霊に取りつかれていた」(マタイ十五章二十二節)と聖書は言います。

 

おしとつんぼの悪霊につかれた息子は父親証言によると幼い時から、この悪霊は入っていて、彼を滅ぼそうと何度も火の中や水の中に投げ込んだと言います。(マルコ九章二十一節)

 

ある日、偏頭痛で苦しんだ時に祈ると眠りに落ち込み、そこで見た夢で私の頭から背中にかけて透明なべっとりした半液体のようなものが張り付いていました。クリスチャンの霊は眠りません。夢の中でも戦い霊的に清く強ければ悪に勝てます。私はこの透明なものを頭から剥がして持ち上げ叫びました。

「イエス・キリストの御名によって出て行け!」

そしてこれを遠方に投げ捨ててから目覚めると薬では効果がなかった偏頭痛が完全に癒されていました。その後、一人静かに聖書を研究し、見つけた病の悪霊に関する御言葉がこれです。

「今、私は心を自分に注ぐ。悩みの日に私は捕えられた。夜は私の骨を私からえぐりとり、私をむしばむものは、休まない。それは大きな力で、私の着物に姿を変え、まるで長服のように私に巻きついている。」(ヨブ三十章十六節~十八節)

病の悪霊は肉眼でも霊の世界でも見えませんが、確実に人にとり付いて絶え間なくむしばみ、体を弱くします。着物、長服のようにしつこく何年でも体にべったりくっついています。不可視なる天敵、病の霊の存在をメアリー・バクスターという現代の女預言者はこう証言しています。彼女も実際の地獄に行った経験があり、そこでイエス様からこう教わったそうです。

 

「イエス様が言われました。「ここでは見ることができませんが、目に見えない悪霊たちの軍団もあります。病気の悪霊などです。」「行け!」と、大きい悪霊が小さい悪魔や悪霊たちに言いました。「悪いことを多く行なえ。家庭を破壊し、家族を滅ぼせ。弱いクリスチャンどもを迷わし、できるだけ多くの者にまちがいを教え、誤りに導け。おまえたちが戻ってきた時にほうびをくれてやる。覚えておけ、イエスを本当に自分の救い主として受け入

れた者たちには注意しろ。彼らにはおまえたちを追い出す力がある。さあ、地上を駆け巡れ。もう他の者たちを送り込んでいるし、これから送り込む者たちもいる。

我々は、暗やみと空中の軍勢を支配しているお方のしもべだということを忘れるな。」

 

病の霊は見えませんが実在し、時に体内から暴れ、発作を起こし、精神不安定も引き起こし、火の中、水の中にも患者を押し倒します。そしてその時の患者の苦痛自体が彼ら病の悪霊の使命であり、生きる力であり、喜びであるため、人に住みついて簡単には離れようとしないのです。これが病の悪霊が長年人体に住みつく理由です!

 

一方、偶像の悪霊はこれと違い偶像の中や供え物や人聞の中にも住みつきますが、目的はサタン本来の野望である拝まれたい、威張りたい、栄光を受けたいという欲望を満たすためであり、偶像に潜む悪霊は崇拝を受けることによって益々、地獄の黄泉の力を増し、邪悪な行いがエスカレートできるのです。

ちょうど父なる神様の正反対です。神様の喜びと願いは、私たちが罪なく健康で明るく喜び賛美して愛でひとつになって祈り暮らすことですが、サタンはその正反対を切望しています。病はすべてが悪霊の仕業ではありません。寒い中、不注意に薄着で過ごせば、自然の法則の中で風邪をひきます。しかし風邪をひかせようとあえて不注意にさせて、体調を壊しやすい環境に導く病の悪霊の働きもあり、飲酒運転を誘いこみ事故を起こし怪我させる場合もあります。

聖書に出てくるおしとつんぼの悪霊は幼い少年を何度もとりついては火の中や水の中に投げ倒して滅ぼそうとしたと書いていますが、これと同じ悪霊の破壊工作が防波堤やビルの屋上や電車が来たプラットホーム等で現れたら、火の中、水の中同様、投げ込まれてしまい、調書は事故や自殺扱いとなるでしょうが、実際には悪霊に倒されたケースも意外に多くあるはずです。ですから試みに会わないよう悪しき者から守られますようにという主の祈りが大切になります。

 

聖書の長血の女は静かに黙祷する伝統的な福音派タイプの祈り手ですが、本人の信仰で癒され、盲人バルテマイは熱く叫ぶペンテコステ派タイプの祈り手ですが、彼も本人の信仰で癒されました。

 

今日、血糖値や血流や血圧の不安定、悪玉菌など悪いどろどろ血液のゆえに病める病人が増えていますが、聖霊様の清めの御言葉がここにあります。

「私は先に清められていない者達の血を清めるであろう。」(ヨエル三章二十一節)(欽定訳聖書直訳)

 

マルコ二章の中風患者が癒されたケースでは本人ではなく、苦労してベッドごと患者を運び、屋根に大穴を開けてイエス様のおられる所まで吊りおろした四人の一致した信仰が生きて働きました。その際、家の主人から怒涛のクレームが出なかったことは、事前に四人が屋根を弁償することを取り決めた上で行動したと思われますが、屋根の修理代を支払ってでも愛する者をイエス様の下で癒していただきたい彼ら四人の犠牲愛伴った純粋な信仰がイエス様に認められたのです。しかし特筆すべきは屋根を掘り進むうちにしゅろの大きな葉に泥を塗り固めた簡素な屋根を砕く破片は恐らく一番大きな部屋である茶の間に足の踏み場もないほどに集まった群衆の頭上、砂ぼこりとなって大量に降り注がれていたことでしょう。大きな穴です。聖書にはそこまで書かれていませんが、特に乾いて固くなった屋根を砕く一発目の突破口は、足けりだと思います。きっと、足で「ボゴン」と貫通させてその穴を砕いて拡大させていったのでしょう。その「ボゴン」の際、真下の無名な一礼拝者は破片が頭に「ボゴン」と直撃してつぶやかなかったでしょうか。「痛っ!何で俺が?」

とにかく多くの謙遜な信者たちの許しと忍耐と砂ぼこりの中、イエス様は中風患者を癒されました。一軒の家の屋根が滅び去ることより、一人の病人が癒されることをイエス様は重視され良しとされたのです。

 

他のケースでもイエス様はレギオン悪霊につかれた男一人を癒す為に、大きな財産である二千匹の豚の群れが湖中に崖からダイビングして失われる犠牲を許可されたのです。

一匹の豚はいくらでしょうか?仮に一匹十万円なら二千匹で二億円です。一匹五万円でも総額一億円です。かなりの資産です。しかし神様の価値基準は時に人とは大きく異なります。もし、ここに天秤が置かれ、片側に一~二億円が置かれ、反対側には悪霊につかれて理性を失い全身に傷を持つ半裸の男が道をとおせんぼしながら大声で意味不明なことを叫んでいる。一体どちらが重要ですか?言うまでもなく、一人の失われた魂への神様の価値観は最も大きいです。一人の魂は天地よりもはるかに尊く価値があります。この認識の下でイエス様は多くの病人をあわれみの思い一杯で癒されたのです。

物の価値は時に支払われた代価の大きさによって分かることがあります。骨董品や高価な宝石類は鑑定人でないと本当の価値が分かりませんが、おおよそ支払われた代価を聞く時はじめて、素人でもその物の真価が分かります。私たちの価値は一体どれ位でしょうか?

多くの失敗によって、時に自分の本当の価値を見失いそうな気分になる時、失敗した自分の姿ではなく十字架のイエス様を仰ぎ見つめなければなりません。

その支払われた御子イエス様の罪なき唯一の血潮の代価を引きかえに与えられた新しい命です。神のひとり子の身代わりの死という犠牲の大きさを思うとき悟りが来ます。

あなたは高価で尊く神様に愛されている重要な人物なのです。

「『ひれ伏せ。われわれは乗り越えて行こう。』と言ったので、あなたは背中を地面のようにし、また、歩道のようにして、彼らが乗り越えて行くのにまかせた。」(イザヤ五十一章二十三節)

「さあ、イスラエルは言え。「彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。彼らは私に勝てなかった。耕す者は私の背に鋤をあて、長いあぜを作った。」(詩篇百二十九章一~三節)

イエス様の背中が踏み砕かれる地面や歩道のように打ちのめされ、ムチというスキで耕された畑のあぜ道のように、イエス様の背中は長いあぜ道のように深い打ち傷が破傷風と共に長く腫れ上がりゴルゴダの地を赤く染めました。この支払われた世界最大級の代価のゆえにこそ、私たちは神様の御前で価値ある存在であることを自覚でき、イエス様が身代わりにムチ打たれた無数の打ち傷の血潮によって病が癒されたのです。

 

信仰の賜物

 

「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。ある人には同じ御霊による信仰が与えられ」(第一コリント 十二章七節)

 

私たち神様を信じる者は「信仰」を持っていますが、この「信仰」がある時、賜物となって強く働く時、奇蹟を起こす「信仰の賜物」となります。

「イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。」 (マタイ十七章二十節、二十一節)

からし種は小さいけれど内に命があります。小さな信仰でも祈れば内なる命は必ず成長して大きくなります。自然界で命あるものは命なきものを動かし支配し管理できます。命あれば、からし種ほどの信仰でも、命なき山のような大問題さえ動かし支配し解決できます。大問題を前に命じる時、信仰で発せられた言葉は強いです。山を動かすレベルの「信仰の賜物」が生きて働けば大きな仕事も出来ます。聖霊を受けた者はすでに霊的な力が与えられています。強く祈りこんだ後、イエスの御名で環境に命じてください。奇蹟は言葉から始まります。

「主よ…してください。」と嘆願する祈りも重要ですが、これは信仰で命じる祈りのおすすめです。イエス様のミニストリーの多くも命じる祈りです。十二歳で死んだ少女に対して

「タリタ・クミ!」(少女よ、起きなさい!)

死後四目目の腐敗始まるラザロの墓前でも

「ラザロよ。出てきなさい!」

死者たちは皆よみがえりました。暴風を前に

「黙れ!静まれ!」

即座に大なぎです。六千匹の悪霊どもに対しても

「行け!」

力あるイエス様の御名の権威の下では悪霊どもでさえ服従して追放されました。

私たちも信仰で実践しましょう!

 

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ四章二十九節)

「また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。」(ヤコブ三章四節)

あなたの口の告白が望みの港へ導きます。

神様はアブラハムを信仰の父として高めるために本名アブラム「高貴な父」からアブラハム「多くの国々の父」と改名されました。妻サライ「高貴な母」においても同様にサラ「多くの国々の母」と改名。これは日々の告白を変化させ百歳と九十歳の老夫婦が奇蹟的高齢者出産を可能にさせる為にです。互いに名前を呼び交わすことにより告白された言葉の通りの力がやがて生きて働き、彼らはイサク出産を現実のものとしました。

 

名前通りの性格の人ヤコブ「押し退ける者」においては、イスラエル「神の王子」と改名するや否やその場で祝福を受けることができました。

イエス様はシモン「葦」に対してペテロ「岩」と新しく名づけられました。川辺の葦のように微風で左右に揺らぐ優柔不断な者ではなく、岩のように確固とした信仰で教会の柱になってほしかったからです。イエス様のペテロへの願いは三年半もの間「岩・岩・岩」と信じて呼び続けてペンテコステ以降ペテロは別人のように変えられて現実に成就しました。

ここで誰でも単純に創氏改名さえすれば祝福されるのではなく肝心なのは日々語る言葉の内容です。

好戦的で短気だったヨハネは病気の発作のように定期的に怒りが生じました。一例を挙げると

「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(ルカ九章五十一節)

 

なんと閉鎖的で短気でしょうか。ヨハネは雷のように怒りやすい性格を直そうと日々の告白の言葉を変える努力をしました。

「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、」(ヨハネ十九章二十六節)

「イエスが愛された、もうひとりの弟子」(ヨハネ二十章二節)

「イエスの愛されたあの弟子」(ヨハネ二十一章七節)

「イエスが愛された弟子」(ヨハネ二十一章二十節)

これらの発言はヨハネ自身が自分のことをそう呼んだのです。ヨハネ福音書の著者ヨハネ自身が「イエスに愛されている」ことを自覚して福音書記録時にも自分からこのことを何度も告白し続け、やがてヨハネ第一、第二、第三の手紙という愛の書まで書く程の「愛の

使徒」に変えられたのです。言葉の力は強いです。告白した通り、短気が消えて愛に満たされたヨハネになったのです!

あなたも「私はイエスに愛された弟子です。」と、生きた信仰告白を毎日繰り返しましょう。信仰はあえて方程式にするならば、分母は「レイマの御言葉の土台(聖書を読んで心に飛び込んできた御言葉)」分の分子は「大胆な信仰の行動」=「奇蹟」です。直接語られた主の御言葉の土台なく突発的に行動することは危険です。聖書をよく読んで御言葉を受けた上での土台ある行動が安全です。 

 

新約では十字架上、イエス様のかたわらで悔い改めてパラダイスに入った強盗人。彼は誰も伝道しないどころか逆に民衆全体が十字架の死を叫ぶ只中で、イエス様も一つも奇蹟を起こされないのに信じました。神の栄光の雲に乗って御使いの群集と来られる光輝く再臨のイエス様なら誰でも彼を神様と信じられます。しかし十字架の血潮にまみれた悲惨に砕かれたそのボロボロの御姿を見ながら一度だけ十字架上、祈られたイエス様の御言葉を聞いた直後に信じたのです。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

(ルカ二十三章三十四節)

まさに否定的な環境を見ず、聖書の御言葉にのみ信仰の土台を置く勇士のようです。

 

そしてイエス様の聖誕時に幼子を抱いたシメオンとアンナ。彼らはこの救われた強盗人以上にイエス様の語られた御教えや成された奇蹟をうわさにさえも聞いたことのない人たちです。なぜならイエス様は今、生まれたからです。クリスマスを機に無力な幼子イエスを見て神様だと信じたのです。永遠の命に通じる「信仰の賜物」は大切です。私たちはただ信仰によって神様は罪なきイエス様を十字架の死から三日目に復活されたと信じています。

「イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ二十章二十九節)

アーメン

 

 

残念な災害をきっかけに信号機が見やすく事故を減らす 

 

東日本大震災で電力供給源になっていた原発停止によって節電意識が高まり、白熱電球よりも電力消費の少ないLED電球が注目され、残念な災害をきっかけに信号機をはじめ製品に一斉導入されました。  

  

生い立ち 家庭環境が悪くても夢あれば成功できます。

 

江戸幕府を開いた徳川家康

 

彼は片親で、家庭環境は複雑。父は殺され、母とは幼少期以降は全然会えない。織田家や今川家の人質という厳しい家庭環境で幼いころから過酷な環境にいたからこそ天下を取る事ができました。

 

生い立ち 家庭環境が悪くても夢あれば成功できます。本田宗一郎

 

貧しい鍛冶屋の息子で15歳で東京の自動車修理工場に丁稚奉公でっちぼうこうに出ました。彼の夢は一貫して自動車生産。22歳の時に、郷里に戻って自動車修理工場を創業。後に、二輪車から始めてスーパーカブを大ヒットさせ、四輪車に移行してからも数々の名車を誕生させジェット機まで業界参入しました。

「本当に成功したものは全体のわずか1%にすぎない。それを成しえるまでの99%は失敗の連続だった」。

失敗を失敗と捕らえることはなく「失敗は成功の土台をつくるもの」だと言っています。「失敗の無い人生は歴史がないのと一緒だ」


生い立ちや家庭環境が悪くても夢あれば成功できます。パナソニックの松下幸之助 

 

父親が米相場に失敗、破産して一家の生活は様変わり、兄2人と姉が相次いで病没。幸之助も小学4年で学業を断念し、大阪の火鉢屋に丁稚奉公に出されるほど厳しい家庭環境でした。『世にいう失敗の多くは成功するまでにあきらめてしまうところに原因があるように思われる』『最後の最後まであきらめるな』「昔の言葉で、“苦労は買ってせえ。苦労をいやがってはならない。苦労はむしろ買ってでもせないかん”ということを、私ども、子どもの時分には教えられた。苦労は進んでするだけ。苦労は買ってでもせないかん。そうしてこそほんとうに真人間になる、ほんとうに筋金入りの人間になる。単なる知識、学問じゃいかん。それを越す強いものを心の根底に培うとはじめて習った知識なり、学問が生きてくる。その根底なくして学問、知識というものはむしろじゃまになる。出世のじゃまになる。」


長い人生には、山あり谷あり、チャンスの時もあります。頂き高ければ谷も深い。「ピンチの後にチャンスあり」と昔から言われている。「失敗は成功のもと」「わざわいをてんじてふくとなす」

 

Ⅰペテ4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。


イギリスの演劇作家シェイクスピア 『リア王』『マクベス』『ハムレット』『ロミオとジュリエット』で有名ですが、彼は言いました。

『豊かさと平和は、臆病者をつくる。苦難こそ強さの母だ。』
「安定した生活は豊かさを生みますが、挑戦する貪欲さを無くしてしまう」

 

ロマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。