私の言葉も、私の思いも、私の感性も、私の存在も、
全ては私のなかでのみ「在る」のであって、
他人の中には一瞬だけしかとどまらないのではないか。

その一瞬も、いつしか失われて、
気がつけばだれの中にもとどまることもなく、
ただ日々を過ごす空しさに苦しみを感じることになるのではないか。

自分だけの内的世界を価値あるものと感じ、
他人にそれを軽視されたり履きちがえられると
言葉にできない負け惜しみと違和感と、
同時に静かな動揺を感じ続ける。
こういったものを「ひとりよがり」とする。

私はどうにもこの「ひとりよがり」が強いところがある。
私がこの性質を培った土壌として挙げられるのは、
自分至上主義的な父親と、我が子を賞賛する延長線上で自らを賞賛する母親の
自己愛から派生した愛情で育てられた環境ではないかと考えている。
もちろん、全てを親のせいにする気はないが、
少なからず「自分を守る」ことへの執着が強い両親の影響は多い気がする。
そして、そうした私の中の土壌=素質が、
環境という刺激を受けながら、拮抗を続けているのだと思う。

時には自分の存在よりも価値や愛を感じる相手や場を見つけたりするが、
なぜ私の存在に価値や愛を感じてもらえないのかと悩んだりしている。
この「なぜ」以後がまさに「ひとりよがり」の度合いが強いことで
苦しみの種だったりするのだ。
そのくせ、自分と違う解釈で自分の価値観に添われると
ため息をつきたくなってしまう。本当にひとりよがりだ。

いっそ「お前なんて誰にも大事に思われてないから」と
言われてしまえば、あっさりと線引きできるんじゃないかなんて妄想してしまう。
この妄想は「もう一人の自分」の声で、「ダークサイドな私」である。
最近は随分彼女の出現も減ったものだが(といって、本当に声が聞こえるわけではないが)、
時々ふいに心の隙間。。。というか、足元に穴があいているときに
したり顔で現れる。「そろそろ観念した?」

観念まではしなくても厭世的になるのである。

厭世的になるから足元に穴が空くのか、
足元に穴が空くから厭世的になるのか、
どっちがどうだかはわからないが、
とにかく突然そういう空しさを異常に感じてしまうことが多い。
ひとりよがりのなれのはて、である。




・・・よーするに・・・なんか・・・さびしーい、の。
理由?わかんない・・・