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沢野ひとし 「東京ラブシック・ブルース」     1989-1991

 沢野ひとしさんというと、椎名誠さんの古くからの友人で、
椎名さんの本にも挿絵やイラストを書いたりしています。
椎名さん曰く「アホバカ画伯」「ワニ眼の画伯」とか...。
あやしい探検隊(東ケト会)の初代料理長!?
椎名さんとは高校時代の同級生で、その後も椎名さん、木村晋介さん(弁護士)らと
共同生活を続けてました。

 その沢野さんの高校をドロップ・アウトした頃からの(自伝的)小説です。
先輩の彼女の家の押入れに眠っていたスティール・ギターを譲り受けたことから、
彼のカントリー・ミュージック・ライフが広がり、米軍キャンプのカントリー・バンドで
アルバイトをし、しまいにはアルバイト代を持ち逃げされ...。
そうこうしてるうちに、ジミー時田のマウンテン・プレイボーイズに
ローディー兼スティール・プレイヤーとして加わることになります。

 当時の日本のカントリー歌手はほとんどがハンク・ウィリアムズの信俸者だったようで、
黒田美治、小坂一也、守屋浩、竹田公彦、寺本圭一、ジミー時田らはみなハンクの歌を
持ち唄として唄ってたようです。中でもジミー時田さんは酒好きなところや、その唄い方など
「和製ハンク・ウィリアムズ」と評されてたそうです。本当はジミー・ロヂャーズに憧れて
ジミーと名乗ってたらしいのですが。

 当時のマウンテン・プレイボーイズは寺内タケシさんが脱退しブルージーンズを結成、
いかりや長介さんはジャイアント吉田さんとドリフターズを結成。
ジミーさんと名倉章さん(ギター)、松平直久さん(スティール)、宮城久弥さん(フィドル)
を中心に活動してましたが、そうこうしてるうちに松平さんの後釜として
ジミーさんに声を掛けられ、参加してしまう主人公。

 この小説を読んでると、いろんなトリヴィアを知ることができます。(笑)
例えば、「プロレスラーの "鉄人ルー・テーズ" はナッシュヴィルでプロモーターを
していた...。」とか。

 ジミーさんのバンドで「ボーヤ」として可愛がられた末、ジミーさんが単身ナッシュヴィルへ
旅立ち、自分は音楽から離れようと決心するも、絶ち切れず、アメリカへ発つことに。
そこで物語は終わります。

 実際、どこまでが自伝で、どこまでが創作なのかよくわからないのですが、
沢野さん自身、あとがきで「小説は91年に完結したが、3年ほど放っておいた。
その間、何度もナッシュヴィルに出かけ、カントリー・バンド "メイ・フライヤーズ" まで作り、
ますますカントリー音楽にのめりこんでいったというのに、あいかわらず原稿はそのままだった。
今年(94年)になって重い腰を上げることになったきっかけも、やっぱりジミー時田さんだった。
ライブハウスで会うたびに「いつ出るの?」と言ってくれるのだ。」と書いておられます。

 「ここ数年、日本でのカントリー関係の音盤の充実ぶりには目を見張るものがある。
本場アメリカでも、ガース・ブルックスの登場でカントリーの人気が復活し、
今やステージではテンガロンハット一色だ。
愛してやまないカントリー音楽とカントリー・ファンにこの本を捧げたい。」
と結んでおられます。