午前中は、妹宅でおしゃべり。

窓いっぱいに見える大空と遠くに見える熊本の美しい山々・・・住まいはやはり窓から見える景色が大切だなぁ・・・


午後は、面会の曜日や時間が厳格に決まっている熊大病院へH叔父様のお見舞いに。




大家族だった私の原家族。この叔父にも、一番歳が近かった(10歳違い)からか?私は生まれてからずっと大切にしてもらった。


叔父の両手を握りしめて、会話すると彼の目頭に涙が・・・多分わかっていたのだと思います。

私も子供の頃や結婚する前の話をしながら・・・泣けて泣けて仕方がありませんでした。


裁判官だった祖父の赴任先の宮之原でも、唐津でも、佐世保でも・・・本当によく遊んでくれました。叔父が『司法官試験』に合格し、帰省の途中大阪に寄ってくれた時、その恐ろしいほどに痩せて人相が変わってしまっていた叔父の顔に、ショック‼️を受けた私。


明大法学部で一緒だった前叔母との熱烈な恋愛の末の結婚式も、熊本県と福島県との間をとって、当時私たちの居た大阪であげてくれました。


水俣病第一次弁護団で、国とチッソと勇敢に戦っていた叔父。そんな忙しい叔父に福島の花嫁は寂しかったのだと思います・・・離婚となりました。(後に、有能な弁護士になられます)


丁度その頃、私は短大を卒業して『花嫁修行』で祖父母の元へ帰っていたので、離婚の痛みにノタウチ回っていた叔父が、倒れ込む様に実家である祖父母の家に来ていた事・・・。


その後の激しい彼の人生の転落ガーン

そして、そこから這い上がって行く彼の壮絶な人生・・・


祖父母に反対され続けた私の結婚には、この叔父が福岡や八代で隠れ蓑になって便宜を図り、私達が結婚出来る様に秘密裏に働いてくれた。


もっともっと沢山の思い出があります。ヨットで姫島に、クルージングに行った日の思い出。

弁護士の叔父の仕事を手伝っていた時の事。


叔父には感謝しても感謝してもまだ足りない位に私は、全面的に叔父に甘えて育って来ました。


ベッドサイドで、叔父の体をさすりながら、何度も何度も『ありがとう‼️』と泣きながら私はお礼を伝えました。


私が亡くなった夫とのサバイバルな結婚生活を頑張り抜けたのは、この叔父の深い愛情の支えと、彼の壮絶な生き方に励まされたからだと思います。


H叔父ちゃん❣️

本当に72年間・・・

ありがとうございました❣️


妹が阿蘇熊本空港✈️までレクサスで送ってくれました。心優しい妹にも本当にいつもいつも感謝ですね。


今回不思議な事に、叔父の面会曜日の制限のおかげで、思いがけずこんな美しい季節に夫と約束していた黒川温泉に行けました・・・コレは、叔父が用意してくれたとしか思えません笑い泣き


eccles: 3: 2
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。

eccles: 3: 4
泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。

駅前に鍵もかけずに駐車していたプリウス、何の被害にも遭わず、待っていてくれました。日本は本当に平和な国です。