今日、午前中飾り棚の中を片付けていたら、こんな物が出て来ました。

下矢印

夫が亡くなる5日前・・・


「オンデマンドで『まんぷく』を見ながら、二人で食べよう❣️」


と、夫が嬉しそうな顔をして会社の帰りに買ってきたカップヌードル のレシート。このカップヌードル を食べながら、幸せな時間を過ごした週末。


彼が、私に買ってきてくれた最後のプレゼント🎁です。涙が溢れます。


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お昼から、お茶のお稽古で池田へ。


『エスプリさん、

お母様の着物どうでした?』


と聞かれて、苦笑い😅


『どなたか、同じサイズの方が居られたの?」


と聞かれて、苦笑い😅


『お母様が、きっと悲しんでおられますね。』


と、皆様。


『弟と妹から、今後一切母の着物と茶道具の話はしないで欲しい、と鍵をさされました🥴ので、この話は、終わりです。』


と話すと、先生が、一言・・・


『それは、着物や茶道具の問題ではなく、お母様の愛に対する嫉妬・ジェラシーです❣️』


なるほど❗️直ぐに全てを放棄して、阪急で新しい着物と帯を買いに行きました❣️←切り替えが早い私。



上差し弟に唯一お借り出来た茶道具(笑)この帛紗は、濃茶席の出し帛紗ではなく、『唐物点前』の時につかう帛紗との事。母はこの帛紗を少し使っていた様です。


一応、お免状は亡き母が『唐物』まで取ってくれていたので、現在別稽古で『茶通箱点前』を45年ぶりにやってますが、コレが完全にマスター出来たら、いよいよ唐物点前に入ります。


もう少し上達したら、来年此の帛紗を使って唐物点前を早くしてみたいなぁ〜😍😍😍


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今回帰省により、最大の収穫であった母の「地方教授申請書控え」に書かれていた母の茶道歴。


コレによると、

下矢印

昭和25年11月  入門免状取得・・・22歳

      26年10月  習い事13箇条免状取得

      27年         (長女出産)

      28年         茶通箱免状取得

      29年         唐物免状取得

      30年         (長男出産)

      31年         大天目取得

      32年         (次女出産)・・・29歳

      

      38年          盆点取得・表千家同門会入会

      39年          地方講師免状取得  ※熊本市

                         ・・・36歳

      47年12月   相伝取次  ※横浜市にて44歳

      (八代市のエスプリへ。

                     入門及び習い事13ヵ条)

      49年7月     相伝取次  ※横浜市にて

                  (八代市のエスプリへ。茶通箱)

      49年10月   相伝取次  ※横浜市にて

                   (八代市のエスプリへ。唐物)

       53年         地方教授者講習会終了

                                     ※福岡市にて

       54年←おそらく  地方教授免状取得    

                                     ※広島市・・・51歳


上差し おそらく、母は、結婚前からお茶のお稽古を始めていて、確か友人のお母様だった『加地先生』私をその娘さんに預かって貰って稽古に励んでいた母。私と同い年の男の子がいて、仲良しだった🥰。


およそ30年以上に亘って茶道と格闘し、夫の転勤先で西日本を転々としながらも『茶道教授の資格取得』までのぼり詰め、最後までやり遂げた母の茶道稽古の人生。


初めての弟子に相伝(お免状を家元に取り次ぎ交付)したのは、記録によると私の『茶道入門』の日付と一致する。相伝の記録は、全て私へのお免状の交付日と一致する😭😭😭😭😭


茶道に厳しい母は、私を其々転勤先の同門会で知り合った『母の友人・茶友』に私のお稽古を委ねた為、私の最初のお免状交付が、何と習い始めてから8年目・・・私が実家を出て八代市の祖母の元へ行き、母の元を離れてからである。


おそらく、私を委ねられた「母の茶友人達」は既に『茶道講師であった母』の弟子として私を指導はしても、母がお免状の申請を出さない限り、どうする事もできず、習い始めて8年間の長きに亘ってお茶のお稽古に励む私には、全くお免状が与えられていなかったのである。


私が20歳の時、横浜市に住む母から離れて、熊本県八代市で再び お稽古に励んだ私は、一般の茶道教室に通う様になり、『入門のお免状』さえ貰って居ない事に気が付き、次のお稽古に進めない事を母に手紙で問うた日の事を覚えている。


『お免状は、私が出すから現地の先生の申し出を断りなさい❣️』


記録によると、母はその後大急ぎで次々と私のお免状を取り次いで交付してくれた。実にその時私は既に10年以上のキャリアとなっていた。


母にとって、最初で最後の弟子となった私。

私のお免状の裏書には、全て家元の字で母の名前が書かれている。母の茶歴の記録と全て一致する・・・。実は、『茶道教授』の看板をもらうには、相伝(お免状の取次)の経験が無いと、最後のお免状が貰えない。母の目的に合致した『私のお免状取次』・・・双方にとって都合が良かった時期が、来ていたのかも知れない。


横浜市の母の友人のお稽古場で、茶通箱を習っていた私を見ていた母は、遠く離れてお稽古を続けている私に、10年目にやっと『茶通箱』と『唐物』を立て続けに、慌てて取ってくれたのだと思う。


誰からもお免状を交付されてない私に、家元の許可なく(免状の交付前に)『炭点前』『茶通箱』沢山の『茶事』まで講師クラスの指導をしてくださった関西や関東の母の友人達には、感謝しかない。


私を中学時代から20歳になるまで、なけなしのお金でお茶のお稽古を続けさせた🥴にも関わらず、

何故、母は私にお免状を8年間も全く交付(相伝)しなかったのだろうか・・・。母は、私のお稽古には厳しく、時々お稽古場(茶友人宅)を訪ねて来ては、帰ってからも私に厳しく指導していた。


何故、自分の着物はあれ程沢山作っても、何故私には1枚の着物も作ろうとしなかったのだろう・・・。今回、1枚不思議な着物が見つかった。明らかに娘の着る着物で裏は真紅。サイズは母と私のサイズ。仕付けははずしてあるが、ほとんど着ていない赤ピンクの茶会用着物。今回お借りして中を見てビックリ、お端折りが娘用赤なので70歳の私にはとても着れない。これもお返しするとしよう。


コレから一緒に茶道を極めようと思って仕立てたのに、私が母の元を去ったからなのか?


母が少しづつ買い溜めた茶道具。お稽古場を作るのが夢だったのであろう・・・。一代でお茶のお稽古場を作るのは、相当な資産家でなければ本来は不可能。しかし母は、その夢を持ったままお教室を開かないまま天に召されてしまった・・・。


母は、私に何を望んでいたのだろう・・・。


謎が多い・・・。