免許をとってから、ちょっとした移動に「車で行こうか?」と、キラキラした言葉を意気揚々と使うようになった。
ちょっと笑ってもらえるの待ちで。
だけどその調子に乗ってる言葉は、ちゃんと行動が伴うので、「来てよ」と言われれば行けてしまう
まるで俺はアラジン。
こんなペラペラで小さなカード一枚に、無限の夢がある。
当たり前のように皆持ってて、よく、普通の顔で財布に入れていられるなって。
まだ初々しい俺は驚愕するわけです。
俺!免許持ってるよ!
まるで黄金を懐に忍ばせてるような気分なのにな。
昨日も、嫁が疲れた迎えに来て…と冗談でLINEしてきたのに対して、多分彼女は電車で、という意味だったのに
俺はカーシェアでぶーん。
すぐに隣の駅まで行きました。
憧れがまたひとつ叶ってしまった〜
へへ
仕事終わりの彼女を車でHeyhoney出来ちゃった。
嬉しいね〜嬉しいね〜
パパの車にはまだドラレコを載せてないので、煽りとか事故とかほんとに気をつけないとなんだけど
ドラレコ。
Switchもそうだしプレステも今やそうだから、平成中期以降生まれはみんな当たり前のようなのかもしれないけど
この、基本録画保存はしてないのに、一つアクションで遡って撮りたいところだけ保存してくれる機能。
凄いよね。
どんどん進んで消えてくはずの過去を、そこだけ切り取って永久に残せる。
記憶もそうやって置換出来たらいいのにな。
俺の中に保存されてる過去は本当に少なくて、メモリが少ないのか、そもそも粗悪品なのか、知りませんけど
あの時のあそこだけ、ポンっと取り出せない。
鮮明に覚えてる過去なんてほとんど無くて、映像の記憶はほとんど無いに等しい。
音だけ、言葉だけ残り続けてる。
記憶を取り出す時、皆はどうやって頭の中に思い浮かべるんだろう。
誰かに聞いたこともないけど、俺の場合はね、
真っ白な分厚い辞典だよ。
あの日のあの時の、って話をしてく時、そのページをパラパラ捲ってく。
そうするとどこかの索引にヒットするページがあって、事象を小説のように読み上げる。
映像味匂いの記憶はほとんど無くて、誰がいた、なんと言った、どうこうした。って文字を読んでる感覚。
頭の中の日記みたいな。
それも詳細に書かれてるところと飛んでるところとあって、だから詳細なところは多分正しい記憶で話せてるんだけど、間の記録されてない所は白紙で一欠片も思い出せない。どれだけその当時をなぞられようと、俺の記憶の本の中に書かれてない。
文字達が、言葉達が形を生したものしか残ってない。
から、時折間違えた記憶のまま残ってるものがある。
なんでって表情まで声色まで覚えてないからだ。
その人がその時言った言葉だけが、刻み込まれて消せないままでいるものたちがある。
俺は母親を尊敬してるし愛おしいと思ってるけど、彼女が言った言葉たちが、言葉しか残ってなくて
そしてそれらは到底人を傷つけるだろう言葉たちである為に、思い出さないようにせざるを得ない。
もし、映像で記憶が残せているなら、彼女のその時の表情を思い出せるなら、
もしくはその前後もきちんと保管できているなら
きっともしかしたらもっと都合のいい、優しい出来事の一部だったかもしれないのに
俺は俺の中に残ってる冷たい黒いインクの明朝体しか覚えてない。
過去の輪郭は、ハッキリしてるのにきっと情報が足りない。
父親に限ってはそれすらほとんど無い。
大人になるにつれ、家族仲のいい友人たちの後ろめたさのなさが眩しくなっていく。
誰を否定することも無く、誰かの言葉に抗うことも必要ない。
そのあけすけが羨ましくなっていく。
上っ面や体裁だけでも、誤魔化しが効けばいいんだけど
こと、両親の話になるとどうしてもそれが難しい。
彼らがそれほどまで不遜な親とかいう以前に
あれほど長く恨み、憎み、否定し、反抗し、拒絶した人たちを今更どの面下げて[良い親だった]と言えばいいのか分からない。
一度染み付いた黒いインクは、消せないのだ。
消したいとも、思えなくなるほどに拗れてしまった。
もうここまで来たら、あとの人生は放った言葉に後悔しないよう、彼らが死んだ後後腐れないように別れる決意を固めるだけなのだ。
よく言われる。
「そんなこと言ってると、親が死んだあと後悔するよ」
一概にいいえそんなことは起こりません。
と一蹴してしまうのも意固地に見られて嫌じゃないか。
花がない。
だから、そうかもしれませんねぇとだけ苦笑いするが、どうにか放って置いて欲しい。
後悔するかしないかなんて、それを口にするかしないかだけだから。
それをしないと決めることだけは容易いのだ。
心が惜しんだところで、口をつぐめば後悔はこの世に放たれない。
それでいい、それでいいんだよ。
俺も自分より若い子たちが、選択を危ぶむ時「後悔しないように」言葉をかけようとしてしまう。
けどしなくていい。
その子たちが後悔して、どうしてあの時言ってくれなかったんだと言うなら、これからは言うよ、と伝えればいい。
憧れるんだよな、人は。
「あなたがあの時こう言ってくれたから今があります」と感謝されることに。
誰かの人生が自分の金言や行動で好転することを、須らく全ての人類がいちばん甘い蜜とする。
生殖の次の本能かもしれない。
あれはどうしてあんなに魅惑的なのだろう。
みな、自分は何も残せないと、信じて疑わないからだろうか。
そんなことは無いのに。
他人に干渉しなくたも、人は生きて死ぬだけで何かを残すのに。
俺は自分の家族はここに居る嫁と犬とパパだけ。
地元にいる血の繋がりがある誰かが死んでも泣かないし後悔しないと決めている。
何もしない。
道別れた友人のようなものだと思ってる。
だけどそれらは他人にとって綺麗な話では無いから美談を作る材料にされてしまうので
できるだけ話したくない。
昔とは、違う意味で話したくないものになった。
たまに誰かに寄り添う手段にしようとしてしまう時もあるが、もうそれも悪癖だ。
やめにしないとな。
俺の中のドラレコは融通が効かないんだ。
母の言った「お前なんかより大切にしたい命があったのに」という言葉はいちばん大きな錆びた釘だけど、その時の表情は俺の中の記憶のページはただ簡素に[赤くした涙をこらえる怒りの表情で]となっているだけで、本当にそうだったのか、映像はない。
遡れない。
そもそも俺たちは割れていたし。
この先一生彼女たちに会えなくてもいいなってそろそろ思っていて、フォローされてるTwitterもいつブロックしようか悩んでいる。
完全に縁を切るには実家に置いてきた書物の回収が先になるが、彼女たちから貰うべきものはもう何も無い。
欲しいものもあっちもなかろう。
そしたら俺の中の地元での18年分のページは全て破り捨てて、丸めて、火をくべ、焼き栗でもしたいもんだ。
まだ29年かとふと思う。
東京に来る前と来たあとでの人生が別々に濃密で、長くて、様々なことがあったから。
1年は恐ろしいほど短く感じる年齢になったのに、俺の人生はまだ29年しか経っていないのか、と。
死ぬには遠く、生きてきたには長い。
今すぐ決めることもそんなに本当はたくさん無いんだろうけど
選択肢と分岐はいつもすぐそこにあるのだから
日々はとても膨大なのだ。
