Jensです。

 

2024年になりました。遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。

 

このブログは案件販促、宣伝用にと思って立ち上げたものなので、本来の使い方をしようとは全く思ってなかった。けどたまにはつらつらと長い文章で気持ちを出したいなと、今日はそんな気分だったので書きます。

 

 

今日もいつも通り労働を終えて電車に乗ってX(Twitter)を開いた。気になるというか見覚えのある言葉もとい名前がトピックに上がってたのでそれを開く。あえて何処の誰とは言わないが、契約解除と書かれていた。一瞬目を疑った。でも確かに見覚えのある名前で、紛れもなくその人物だった。詳細は書かれていなかったが情報漏洩による契約違反、それに伴っての契約解除。全くもって予兆の欠片もなかったから兎に角驚き、ショックだった。特段好きだった人物ではなかったけれども、YouTubeはチャンネル登録してたまに眺めてたし、好きなキャラクターではあったから素直にショックだった。

今回のその件、自分にとっては特別に好きな対象ではなかったけどそれなりの傷心だから本当に大好きな存在、例えば僕からしたら大好きなバンドや大好きなキャラクターの声優さん、大好きなVtuberなどがある日突然消えてしまったらと思うと、想像できないくらいに恐ろしい。でもこの件も誰かにとっては、受け入れられないほどの悲しみになっている人もいるだろう。食事が喉を通らないとか涙が止まらないとか、他人には分かってもらえないほど感情が不安定になってる人もいるかもしれない。予め分かっていても分かっていなくても、消えてしまうのは一瞬だ。

 

 

似たような違う話で、僕も突然のお別れを経験した。もう何年も身内が亡くなることがなかったけれど、去年の3月に母方の祖父が亡くなった。大好きなおじいちゃんだった、小さい頃からたくさん面倒を見てくれて可愛がってくれた。将棋を教えてくれて何度も対局した。結局一回も勝てなかったな、詰めが甘いとよく言われていた。これもある日突然母から連絡があり「おじいちゃんが危険な状態」とあって緊急入院したと。この数年似たようなことが続いていたので今回もきっと大丈夫だろう、そうじゃないにしてももう歳だし仕方ない部分もあるよな。なんて呑気に構えていた。その2日後におじいちゃんは息を引き取った。弟からそう連絡があった時も、悲しいけれどまぁ仕方ないよなと、そんな風に思っていた。今振り返ればこんなふざけたこと思っている自分を、手の感覚が無くなるまで殴ってやりたい。お通夜を終えて自分の家族だけ葬儀場に宿泊。夜遅くになっても祭壇、棺桶を安置してある広場は明るかったので、何度もおじいちゃんの顔を眺めに行った。翌日のお葬式。本当に最後のお別れの瞬間。おじいちゃんの体の周りに綺麗なお花や生前大好きだったあんぱんや愛用していたシャツなんかを並べている時、この時が本当に悲しくて悲しくて、涙は見せないと決めていたけど無理だった。止まらなかった。「気をつけていってらっしゃい、こっちは大丈夫だからね!」と声をかける、最後におばあちゃんが本当に悲しそうな声でお別れをしていたのが、悲しみを増幅させた。全てが終わって、住んでいる東京へと僕は帰ってきた。それからは普通の生活、仕事に戻っていった。ダイニングにあるテーブルの端におじいちゃんの遺影と同じ写真を飾ってある。

 

長くなってしまった。この件から先ほども書いたけど、最後に顔を見せに行くべきだったと後悔した。今も後悔している。それと会いに行けるうちはたくさん会っておくべきだなとも思った。おばあちゃんにたくさん顔を見せに行きたい、そうすればおじいちゃんにお線香をあげることもできる。ある日突然いなくなってしまうことは有り得るのだから。

 

 

これもまた最近の話の思ったことだけれども、去年の自分の音楽活動は周りの人たちに恵まれたおかげでたくさんコラボできたし、凡そ友達と呼べる仲間も増えた。今年はどんなことをやろうか、仲間たちとどんなコラボしようか、そんなことを考えられているだけでどれだけ恵まれて幸せなことか。それと同時に、この幸せもいつかは終わってしまうものなのだろうなとも思った。けどそれは必然であって、これも特別なことではないだろう。それどころか、様々な事情で今仲良くしてくれている人たちともう関わることが出来なくなってしまうかもしれない。言ってしまえば、そんな大切な音楽仲間もXやDiscordといったSNSだけでの繋がりだけで、それがある日突然なくなってしまったらもう永遠に会うことはないかもしれない。そんな脆い繋がりの中で僕らは活動しているということを思うと、なんだか途端に現実を突きつけられている感じだ。とはいってもこれがリアルであって、今日も何処かでこの脆い繋がりが崩れてしまった場面に遭遇している人がいるのだろう。そんなことを思った。

 

 

ある日突然消えてしまう、終わってしまう。似たようなことに遭遇したり思ったりして、改めてそういうことは普通に起こりうることなんだと実感する。1月1日には能登半島で震度7の地震が起こり大災害となった。前日までなんともなかった街並みが翌日には破壊されている。怖いとか恐ろしいとか、そんな言葉じゃ表しきれない。大切な家族や友人を亡くした人も多いと思う、ついさっきまで居た人が突然死んでしまう。自分がそんなこと経験してしまったら明日を生きることができるか、前を向いて歩き出すことができるか、正直自信がない。でもそんな状況に立たされている人たちが現に今いるのだ。違う世界の出来事の話じゃない。現実なんだ。

 

そして今日、とある曲を思い出して聴いていた。ゲド戦記の劇中歌である「時の歌」という曲。ゲド戦記といえばテルーの歌の方が印象に残ってる人が多いかもしれない、けど僕は時の歌という曲の方がより印象に残っていて好きだ。映画の終わり際に流れるこの曲、曲調もさることながら歌詞もとても深くて今も心に刺さっている。

 

 

 

「生まれ 消えていく はかない 命たちよ 終わりがあり 始まりがあるよ 忘れないで」

 

この歌詞がとても好き。大学生の時にこの曲に出会ったのだけれども、当時とても辛いことがあってその時に繰り返し聞いていた。

物事は、どんな事も物も、生き物も、始まりがあれば終わりがある。物はいつか壊れたり廃れたりしてしまうし、生き物は生まれればいつか死んでしまう。これは世の常なのだ。でもこの歌詞のように終わりがあれば始まりがある。この言葉の意味は、解釈には人や物それぞれの答えがあると思う。それの一つが『受け継いでいく』なのではないかと。

 

今あるもの。大切なもの。大切な人。それらに「終わり」が来ることは確実なのだ。終わりを迎えるまでに、あるいは終わりを迎えた後に、どうやって始まりに繋げていくか。そんなことに思慮を囚われた日でした。

ともあれ、今あるものは今のうちに大切にしておくべきだということは大前提で忘れてはいけない。

大好きなものは有限なんだ。

自分自身もね。

 

以上。