- No name story 1- | 好きな具は梅

- No name story 1-

 
ブルンネンシュティグの一角にある古びた書物店。
 
まるで人目を避けるように、それとも忘れ去られたかのようにぽつんと建っているその店は、外も中身も老朽化が進んで寂れている。
 
無造作に山積みにされた古い書物の奥には、いかにもといった老いぼれの男が一人。
 
勘定台がすぐ傍にあるという事は、この男が店主なのだろう。
 
店主は座ったまま眠っているのか小さく揺れている。
 
失礼だが下手をすればそのまま死ぬのではないかと思えるほど心臓に悪い。
 
今日は暖かい日だ。
 
肌寒い連日が嘘のように過ぎ去り、穏やかな一日を取り戻してきている。
 
暖かい事はいい事だ。
 
…しかし、暖かいとどうしてこうも気持ちがいいのだろう。
 
うつらうつらと揺れる老人に限らず、男は小さくふわあと息を吐いた。
 
「探し物は見つかったかい? ライゼ」
 
思い出したかのように店主が動いた。
 
本棚の裏から、店主に向けて声だけが返ってくる。
 
「んーや、まだ見つからへんわぁ…」
 
ページを捲る静かな音が響くと、そこで会話は途絶えた。
 
ライトブラウンの髪に店内の歪な光が反射している。
 
彼の名はライゼ。
 
今はもう本格的な修行からは身を引いているが、これでもウィザードの端くれである。
 
「アカン、もう時間や…おっちゃん、また来るわぁ」
 
読んでいた書物を畳むと、山積みされた本の頂上にそれを置いて店主に挨拶を一つ。
 
またおいで。店主はにっこり笑うと再び肩を揺らして眠り始めた。
 
ライゼは早足にブルンネンシュティグの大通りを抜けていく。
 
その腕には参考書や資料など、これから使うべきものが担がれていた。
 
 
 
- No name story 1 -
  

  

  
「――― で、これが水質の具現化の法則や。このXの部分に多めに振ると飽和状態、逆にYの部分を多くすると凝固状態になんねん。何か質問はあるか?」
 
カツカツとチョークで黒板を叩く音が室内に響いた。
 
「はーいっ」
 
ライゼの問いに元気な声があがる。
 
真っ直ぐに手を伸ばしたのは教卓の一番前の席にいる生徒だ。
 
「何や?」
 
教卓から覗き込むように生徒を見下ろしたのはライゼ。
 
「その法則だとウォーターキャノンはXに魔力を多く振り込めばいいんですよね?」
 
ぴんと真っ直ぐ伸びた手に真っ直ぐライゼを見つめる眼差し。
 
少女の齎す何もかもが真っ直ぐすぎて、ライゼは内心汗をかきながら僅かに視線を泳がせた。
 
純粋さを失くしてしまった大人にはその真っ直ぐさが少々きついのだ。
 
「せやな、ウォーターキャノンは水質が高いから基礎はそうなるんやけど、水圧の衝撃も大事や思うならγの値もなるべく高くなるよう調整せなアカンで」
 
「分かりましたっ」
 
そこでようやく腕を下ろし少女が着席する。
 
その表情は満面の笑みで非常にご機嫌なのがよく分かる。
 
質問に答えてもらったのが満足だったにしては不自然な雰囲気だが、ライゼはあまり…というか、全く気にしていなかった。
 
「…と、時間やな。今日はこれで終わりや、お疲れさん」
 
授業終了のチャイムが全教室に鳴り渡る。
 
お疲れさんの言葉と同時に生徒たちのだらけた声がいっせいに響き渡り、ライゼも教卓に広げた資料を片付けると教室を出ようとドアに近付いた。
 
「待って、ライゼ先生」
 
「んぉ?」
 
今まさに教室を出ようとしていたライゼを呼び止めたのは例の生徒だ。
 
「ここが分からないので教えてほしいんですけど」
 
黒板から写し取った文字を指差しながら少女が言う。
 
「あー、分かりにくかったか? そら悪かった。ここはな…」
 
「今じゃなくて放課後がいいです」
 
「またか? お前放課後実習が好きやなぁ」
 
「だって放課後の方がじっくり教えてもらえるし、ライゼ先生と二人で勉強できるし。ねぇいいでしょ?」
 
「まー、勉強熱心なのはええ事やしな。分かった、じゃあ放課後に」
 
「いつもの場所でね!」
 
「おう」
 
背を向けたままひらひらと手を翳し、ライゼはようやく教室から開放された。
 
のん気に欠伸をしながら廊下を歩いていく彼は何も知らない。
 
ターゲットは勉強ではなく、自分に向いているのだという事を。
 
 
ライゼの去った後の教室にて。
 
「あーもう素敵っ…」
 
人目も憚らず余韻に浸った笑みを浮かべて少女が呟く。
 
うっとりとした表情、間違いなく自分の世界に入ってしまっている。
 
「また放課後デートに誘ったの? モルニカ」
 
呆れた口調で一人のクラスメイトが近付いてくる。
 
モルニカと呼んだ生徒に比べれば凛として大人びた雰囲気を持っているが、まだあどけない顔をした女生徒である。
 
口調は少々素っ気無いが、これでもモルニカを心配している。
 
しかし彼女の心境など知った事ではないモルニカは自分の世界から帰ってくるなりとんでもない事を言い出した。
 
「ライゼ先生が私を意識するまで何度でも誘うわ!」
 
モルニカがクラスメイトにずいと顔を近付ける。
 
またあの目だ。真っ直ぐすぎて思わず顔を背けたくなるような。
 
「ちょ…ちょっと近いわよ。っていうかアンタねぇ、相手は先生でしかも妻帯者よ? 憧れるのは勝手だけど恋愛感情に持ち込むのだけは絶対やめときなさいって」
 
「あらどうして? 人を好きになる気持ちは自由なのよ? それに私、ライゼ先生が結婚していても気にしないわ! 寧ろ障害が多い方が燃えるっていうか…!」
 
モルニカの目が輝いている。クラスメイトは全力で引いた。
 
…ともかく、彼女が良くてもライゼには間違いなく迷惑だろう。
 
それが分かるからこそ止めたいのだが、モルニカは一度言い出したら聞かない上にこうと思い込んだら一直線に突っ走る癖がある。
 
酷い目に遭わなければ学習しない、そんな彼女の性格を知っている為にクラスメイトは忠告はするが熱心に止める事はしなかった。
 
「全く…、後で泣きついても知らないからね。じゃあ忠告はやるだけやったし、私はもう帰るわ」
 
「今度は大丈夫だって! また明日ね~」
 
その自信はどこから来るんだ。内心呆れながらクラスメイトは帰っていった。
 
 
…さて、本来なら主人公であるはずの男、ライゼを置いて勝手に進んでいく本編。
 
あなたは気付いただろうか。そう、この物語の主人公は、ライゼではなくモルニカやその周囲の者たちなのである…
 
 
…余談ではあるが、モルニカに忠告を施したクラスメイトの名はエリアナ。
 
クラスの中では目立たず大人しい存在だが、ウィザードとしての素質には十分恵まれた秀才肌の生徒である。
 
しかしこの先、登場する予定は今のところ無いので彼女を覚えていても覚えていなくても何ら問題はない。
 
人として多々難のあるモルニカだが、友人には恵まれている事を知っていてもらえたら光栄である。
 
 
 
 
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ウィザード育成アカデミー、魔法書専用図書室にて。
 
モルニカの専攻している授業が終わるまであと1時間。
 
待ち合わせの時間にはまだ早すぎるが、ライゼは既に指定された場所に着いていた。
 
女好きなライゼだからモルニカとの放課後デートを楽しみにしていた訳ではなく、本当なら家に持ち帰ってやるはずだった明日の授業の内容を今の内にまとめているのである。
 
ライゼが講師をしている事に驚きを隠せなかった人ももしかしたらいるだろう。
 
本格的な修行から身を引いた彼の現在の職業は、ブルンネンシュティグ設立のウィザード育成アカデミーの臨時講師なのである。
 
臨時というのは、本来このアカデミーで講師をしていた老齢のウィザードがいたのだが、重い箱を持ち上げようとしてぎっくり腰を起こしてしまい、急遽入院する事態になったのである。

 

どうでもいいが老齢講師の残した言葉は「ぎっくり腰が世界で一番怖い」だった。
 
話を戻して、その時に臨時として引っ張ってこられたのがライゼであり、現在は水系魔法専攻のウィザードたちを授業で育成している。
 
“授業で育成している”というのは、授業と実践は別々の講師が担当するのでライゼは生徒たちに実践までは教えないのである。
 
お世辞にも実践で魔法を教えるには頼りない実力ゆえ、授業担当の講師に選ばれたのはライゼにとって非常にありがたい事であった。
 
(…アカン、この説明はちと分かりにくいわ…。別の言い方考えんと)
 
参考書を片手に横髪を掻き揚げる。
 
彼を知る者が見たら「似つかわしくない」と言われそうな表情だが、本来ウィザードとは知識学のプロフェッショナルなのだ。
 
調子のいい性格が素なら、今のような真剣な表情もまた、彼の素なのである。
 
…と、その時。
 
「ライゼ先輩」
 
不意に呼ばれてライゼが顔を上げる。
 
モルニカでない事は分かっていた。覚えのあるその声に、ライゼが少しばかり驚いた表情で振り返った。
 
「エテューテ?」
 
「先輩~! お久しぶりです、ここで講師をしているって聞いて会いに来ましたよ」
 
どさくさに紛れてエテューテと呼ばれた青年が後ろからがばっと抱き付いた。
 
「ちょっ、図書室なんやから静かにせなアカン! それとひっつくな!」
 
ライゼが小声で抗議するも、エテューテは難無く交わしていく。
 
「いいじゃないですか久しぶりの再会なんだし。それにしてもライゼ先輩が母校で講師をやっていたなんて驚いたなぁ。先輩ってば学生だった頃と何も変わっていなくて、オレ嬉しくなりましたよ」
 
人懐こい犬のようにエテューテがじゃれる。しかしライゼにとっては暑苦しくてたまったものではない。
 
「お前も相変わらずやなぁ…。その鬱陶しさがたまらんっちゅうねん、頼むから離れてくれ」
 
「うわ、素っ気無さまで全然変わってないし。オレが不良だった頃はあんなに構ってくれたのに、こんな事なら更生しなきゃよかった」
 
不満たらたらながらもエテューテが腕を解いた。
 
ようやく圧迫から開放されてライゼが安堵のため息を漏らす。
 
そして何事も無かったかのように再び紙に筆跡を走らせるライゼを見て、エテューテが懐かしそうに口を開いた。
 
「ライゼ先輩、アカデミー生の頃もそうやって毎日勉強していましたよね。遅くまで残って本と睨み合いをして、毎日一生懸命でしたよね」
 
先ほどとは打って変わった穏やかな口調に、ライゼも紙から視線を外さずに言葉を返す。
 
「あの頃は恩に応えなアカンと思っとったからなぁ…。ホンマならアカデミーなんて通える環境やなかったし…」
 
ふ…と、ライゼの手が止まった。
 
(…オレがアカデミーで勉強できたのも、今こうして居れるのも…全部アイツのお陰なんやしな…)
 
次々と脳裏に巡る過去を思い出している内に、ライゼの言葉は途中で切れて止まっていた。
 
「ライゼ先輩?」
 
「……」
 
ライゼはエテューテの呼びかけにも反応しない。
 
意識を全部持っていかれているようだ。
 
「………」
 
しばし考え、エテューテがにやりと悪い笑みを浮かべた。
 
「あんまり隙だらけにしていると襲っちゃいますよ?」
 
後ろから耳元で囁かれてライゼの背筋に凄まじい悪寒が駆け走った。
 
「どわあああああっ!! いきなり何すんねん!!」
 
思わずがたんと椅子から立ち上がりライゼが怒鳴った。
 
図書室に居合わせた生徒たちがびくりとライゼに振り返る。
 
「ほらほら、図書室で騒いじゃいけませんよ♪」
 
「~~~~っお前なぁ…!!」
 
寒気の走る耳元をがしがしと掻きながらライゼが小声で呻った。
 
「ってライゼ先輩、水系魔法専攻なんですか? アカデミー生だった頃の専攻と違うし…」
 
「人をからかうのも大概に…って勝手に見んな」
 
ライゼの体を超える形で紙を覗き込むエテューテが不思議そうな顔を浮かべた。
 
第二の嵐が訪れたのはちょうどその時だった。
 
「ライゼ先生! お待たせしまし―――…!?」
 
ばさりと床に紙が落ちた音が響く。
 
「お、モルニ―――」
 
「アンタ! ライゼ先生に何やってるのよ! っていうかアンタ誰よ!?」
 
「あ? オレはライゼ先輩に一番可愛がってもらっている後輩だけど。っていうかお前こそ誰」
 
「おい、ちょっ」
 
「後輩のくせにライゼ先生にべたべたくっ付いてんじゃないわよ! ライゼ先生は今から私と勉強するんだから離れなさいよっ!」
 
「ライゼ“先生”って事はこいつ、先輩の請け負っている生徒? おいおい最近のガキは目上に対して口の利き方も知らねぇんだな。ここは先輩として厳しく指導してやろうk―――」
 
「お前ら大概にせえ! 他の生徒の邪魔やから出ろ!」
 
とうとうライゼから雷が落ち、エテューテとモルニカは蜂の子を散らしたように図書室を出て行った。
 
ライゼ自身もここまで騒ぎを起こしておきながら居座り続けられるほどいい度胸はしていない。
 
はあと盛大にため息をつくと、机の上に散らかした紙や資料を掻き集めてよろよろと図書室を出て行った。
 
 
 
 
 
 
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なかがき。
 
まだシャルワールの話も終わっていないうちにライゼ編スタート。
色々イメージをぶち壊しながらお届けします。