「ジェンダーフリー」ブッタギリ -13ページ目

日教組によるジェンダーフリー教育の現場

ジェンダーフリー推進派は、「ジェンダーフリー」と「過激な性教育」が、セットで批判される事を最も嫌がる傾向が強い。なぜなら、唯物論を下地においた彼らの思想教育の全貌が暴かれてしまうからである。


しかし、現実は、両者とも、学校教育の中では、日教組の影響下で行われるので、全く無関係のはずがない。それで、今回は、「日教組とジェンダーフリー教育」に関する内容を取り上げた。ジェンダーフリーと性教育をつなぐ「性差」という言葉に対する彼らの解釈に注目していただきたい。

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やっぱり止まらない日教組のジェンダー・フリー教育



正論記者 小島新一


■「男女の走力差にはジェンダーが影響」

 昨年十二月に閣議決定された政府の第二次男女共同参画基本計画で、「ジェンダー」表記をめぐって議論となり、二十二行にも及ぶ行政用語としては異例の長さの定義が付記されたことは記憶に新しい。 

 男女の性差や「男らしさ」「女らしさ」、さらには家族や伝統文化を否定する「ジェンダー・フリー」思想への国民の批判が高まるなかで、「社会的・文化的性差」(同計画では社会的性別)、つまり「後天的に形成されるもの(だから解体可能)」という意味で使われる「ジェンダー」も、「ジェンダー・フリー」と同義ではないかという懸念が広がっていることを受けたものである。

 二十二行にわたる「ジェンダー」の定義の中では、「『ジェンダーフリー』という用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる」と「ジェンダー・フリー」が明確に否定された。

 また「ジェンダー・フリー」が具現化された例として、「児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育、男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合騎馬戦等」「公共施設におけるトイレの男女別表示を同色にすること」が掲げられてもいる。

「男女共同参画」の名前のもとで、各行政機関が「ジェンダー・フリー」思想の影響を受けたと言われても仕方のない政策を展開してきたことを思えば、むしろ遅すぎた「決別宣言」である。しかし、これまでジェンダー・フリーを推進してきた人々にとっては当然ながら面白くなかったようだ。

 日教組は今年二月二十日付の機関紙「日教組教育新聞」で、男女共同参画基本計画改定について次のように書いている。《「ジェンダー」の用語は残ったものの「『ジェンダーフリー』という用語を使用しての性差否定は『国民が求める男女共同参画社会と異なる』」と明記するなど、国際的流れに逆行する表現が盛り込まれている》

 政府の基本計画に反して、性差否定のジェンダー・フリー教育を今後も公教育の場で続けていく意向表明とも受け取れるような見解である。

 日教組の教員たちは実際にはどう受け止めているのか。二月末、三重県で開かれた日教組の第五十五次全国教育研究集会(全国教研)を取材してみた。

 日教組の全国教研は、教科別、あるいは人権教育、平和教育といった分野別にもたれる分科会に、各都道府県を代表する組合員らが参加し、日頃の取り組みを発表するもので毎年一回開かれている。

 「ジェンダー・フリー教育」について議論するのは、「両性の自立と平等をめざす教育」分科会である。分科会は二日間にわたって行われ、初日は男女混合体育について議論が集中した。

 まず、北海道の小学校教員から五年生の短距離走について報告があった。「クラス全員のタイムを男女別に表示する分布図をつくると、八〇-九〇%の子供が男女の別なく同じ範囲に入っていて、タイムの差は男女差よりも個人差によるものであることが分かる。だから一緒に走らせても女子に不公平ではない」という結論だった。 

 これに対して、中学校や高校まで追跡調査をしているのかという質問が、京都の高校教員から出された。年齢とともに男女の平均的な体力差はより明確になる。「小学生とそれ以上では、男女差が違ってくるのではないか」というもっともな質問だと思った。

 ところが、質問者の意図はまったく違っていたのである。北海道の教員が「(中学)二年生と三年生では、男女差が広がります。やはりジェンダーというものが子供達に関わってきてるんじゃないか。女の子が一生懸命走ることがカッコ悪いだとか、自分は女だから速くなくていいんだとか…テレだとか恥ずかしさだとか…そういうかたちで自分の力を発揮してないのではないか、と考察しています」と答えると、質問者は「中学二年から三年で女性がおそらく遅くなっていく。そこにジェンダーがあるんじゃないかという話で、それが聞きたかったんですわ」と゛我が意を得たり″の表情だった。

 要は、男女の体力差にも「ジェンダー」が影響していると考えているのである。

 富山県の小学校の教員は、男女混合サッカーについて報告した。その中で「陸上や鉄棒などの個人種目ではその(男女の)差はあまり影響しないんですが、球技をさせると女子と男子の差がある」と発言したところ、「それは男女差なのか」「男子の中にも不得意な子、女子の中でも得意な子はいるのではないか」と批判的な質問が集中。

 さらに、集団のリーダーとして体育を頑張っているという男子児童の「男子と女子は力の差が違うので、女子のことを考えてスポーツをした方がいいと思う。はげましたりほめたりする言葉をもっと増やせばよい。女子もこわがらずにできることも(男女混合で)すればいいと思う…バドミントンなど」という感想を紹介したところ、「完全に男子のほうが優位な立場に立っているような印象を受ける」といった批判が続いた。

 これが女子児童のコメントであったなら、教員たちはこんな意見を述べただろうか。男子が指導力を発揮することに敵意を抱く、フェミニストの本性をむき出しにしたような発言のように思えた。「日常の中にジェンダー・フリーの視点を」と題した宮崎県の小学校教員の報告は、児童のアンケート結果を紹介していたが、「競技などで男女区別がある」ことを男女差別の例として挙げた回答があった。

 「男女を区別することは差別である」とする極端なフェミニズム思想、つまり「ジェンダー・フリー」の影響を受けているとしか思えない答えだ。日教組の教員たちが男女混合体育を進める真意が伺える。

 ちなみに男女混合体育とは関係がないが、同じアンケートで、「いまだに『専業主婦』という言葉がある」ことを男女差別だと回答している児童がいた。専業主婦は「自立していない女性だ」として攻撃してきたフェミニストが泣いて喜びそうな答えであるが、どのような教育で小学生の子供をここまで洗脳したのかと空恐ろしくなった。

■「個性を大切にするジェンダー・フリー」は詭弁

 男女混合体育については、大分県の小学校教員から、こんな意見も出された。

「この前は男女別々にゲームをしてみました。実際平均的に見ると、やっぱり男子のほうがサッカーの技術ははるかに高くて、一緒にやると女子は叶わないんですね。同じように(ボール)を取りに行っても男子のほうが素早いし、女の子は結局さわれないというような状態になります。それが男子と女子別々にゲームをしてみると、苦手な女の子でもけっこうボールにさわれて楽しい。技術も上にちょっと上がるんですよね。男子は男子で、思いっきりパスがうまくつなげるというようなことがありました。ですから、女の子もボールに触りたいというときは男女別々、みんなで協力して楽しみたい時は男女一緒というように、目的によって変えるやり方も一つではないかなと思います」

 別の教員からも、「例えば中学校二年、三年生、或いは高校生になって、(スポーツなどで)女性が負けている風景を子供達が自分達の中にしょいこんでいくことの危険性みたいなことを言われたことがあります。よく女子校出身の子が、『いや、そんなのなかったよ。みんな競い合ったよ』と言いますが、それ(女子校)はそれで一つ意味があると……なんでもかんでも混ざってではすまないんじゃないか」という発言があったが、いずれも真っ当な意見だと思う。

 しかし、例えば男子校や女子校には共学校にはない良さがあるということは、伝統的な教育の知恵だったはずである。今ごろそれに気づいたように言われても、「なんでも男女一緒のジェンダー・フリー教育はなんだったの?」という事になりはしないか。彼らはプロの教育者なのである。子供たちは自分たちの実験の道具ではないということを分かっているのだろうか。
 
 分科会ではこのほか、「男らしさ」「女らしさ」に縛られていないかどうかを調べるという触れ込みで、子供たちの内心にまで踏み込む「ジェンダー・チェック」、男女統一の「さん」付け呼称推進など、相変わらずの「ジェンダー・フリー」教育がリポートされていた。

 日教組は、これまでジェンダー・フリー教育への批判に対し、「性差や『男らしさ』『女らしさ』を否定するものではなく、それにとらわれない一人ひとりの個性を大切にするものである」と反論してきた。

 しかし、日教組教育新聞の記述といい、男女の体力差も否定するような全国教研での議論といい、その反論は詭弁に過ぎないとしか思えない。彼らの本音は-全員ではないにしても-やはり、性差や「男らしさ」「女らしさ」を否定することにあると考えざるを得ない。アンケートに児童が書いた「専業主婦の否定」も個性尊重とは正反対の考え方である。

 昨年の男女共同参画基本計画の改訂にあたって、「ジェンダー」表記の削除を求めていた自民党「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム(PT)」は計画決定後、今後も教育現場などの実態をチェックし、「ジェンダー・フリー」の暴走が続くのであれば、基本計画から「ジェンダー」を外す方針を決めている。現場の実態をきちんと調査してもらいたいと思う。

 そしてその調査には、同じ自民党議員でありながらPTの反対を「ジェンダーを無理に削れば、手痛いしっぺ返しにあいますよ」と恫喝してまで封じ込めた猪口邦子・男女共同参画少子化担当大臣に先頭に立ってもらいたいものである。

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From
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2006/0605/ronbun2-2.html

ジェンダーフリーの定義に関して

すでに、ジェンダー問題に関心がある人なら、1度は目を通した内容であると思いますが、念のためリンク。


http://home.uchicago.edu/~tomomiy/articlesj/gfree1.htm


上のリンク先の要旨は、以下のようになります。


日本の「ジェンダーフリー」という概念と言葉は、米国学者のバーバラ・ヒューストンの論文「公教育はジェンダー・フリーであるべきか?」(1985)を東京女性財団のパンフ「Gender Free」(1995)で3名の学者(深谷和子、田中統治、田村毅)が、その論文を誤訳したことからはじまり、広まった。


そもそも、「ジェンダーフリー」は、本家、米国では、ほとんど認知されていない概念であり、「ジェンダー・フリー」というスローガンを掲げて「ジェンダーにとらわれない」ことを目指す方向性は、男女平等教育の達成には有効ではないというのが米国学者の主張である。


また、日本の学者は、「ジェンダー・フリー」は、「ジェンダーを無視するのではなく、ジェンダー・センシティブになりジェンダー・バイアスを除去し、性の平等の実現をはかること」と主張して、日本の「ジェンダー・フリー」の概念を米国ですでに認知されている「ジェンダー・センシティブ」や「ジェンダー・バイアス」と関係付けたいようであるが、米国学者達は、『「ジェンダー・センシティブな教育」は、「ジェンダー・フリー」の一過程ではない』とこれに関してもばっさり否定している。


要するに全く関係ないのである。


結論は、推進派が、歪んだ「ジェンダーフリー」理論を正当化したいが為に、米国学者の論文を誤訳、捏造し、捏造した内容を続々と著書で紹介し、まるでそれが大勢であるかのように、教育界に悪影響を及ぼしたのは、事実である。


また、100歩譲って、誤訳が意図的でないとしても(ありえないが)、何の確認もせず、次から次へと引用する学者に、「ジェンダー」を専門家ぶって、権威を持って物事を語る資格など、もうどこにもない。従って、「ジェンダーフリー」という言葉と概念が、このような経過を通じて、広がった以上、「世を惑わした混乱の材料」以外のなにものでもない。


定義不明な耳障りのよい言葉でイメージを先行させ、「先入れ後出し」で議論を始めながら、理屈が合わなくなると、「マイナー層に対する疎外」を持ち出し、感情論に切り替えて、焦点ずらすのは、彼らのいつもの手です。サポートではなく、利用されているだけなのである。



今後、建設的な意味での「男女平等」の議論が期待される。

非指示教育

現在の日本の性教育は、1960年代に米国で普及した「非指示教育」が基本にある。「非指示教育」とは、大人が善悪を子供に教えるべきでないという、道徳やしつけを完全に否定した「理想の人間=オラウータン」というルソーの思想の流れを組んだ教育である。


米国では、この「非指示教育」がカウンセリングという形で広がり、話を聞くだけで、正しい方向性へ導かず、あとは「自己決定」で、という無責任きわまりない教育が横行した。しつけを受けない子供がどうして自分で「自己決定」できるだろうか? 以下の内容は、そんな危険な米国の「輸出品」に警告をするボストン・カレッジ教授のウィリアム・キルパトリックの論文の一部である。

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「米国道徳教育の失敗と人格教育の新しい試み」 ボストン・カレッジ教授 ウィリアム・キルパトリック


>危険な米国の「輸出品」


米国の教育は1960年代において長い回り道をした。むしろ、袋小路に入ってしまったといってもいい。現在、私たちはそれを「本流」に戻そうと努力している。ここでいう本流とは、道徳教育における「人格教育」というアプローチである。 この方法論は、子供に対して模範を強調し、良い行動習慣を身につけるよう奨励する。良い行いとは何であり、また悪い行いとは何かについて、直接に子供たちに話す。


そして学校環境やエートス(学校の校風)を作り上げることも必要で、校則、衣服に関する校規、表彰・報奨金制度、学校や地域社会に対する奉仕活動などに関心を向けさせる。そうすることで、子供たちは自分たちにとっても、また社会にとっても良いといわれる習慣を覚え行動するようになっていく。


1960年代において、米国の教育者たちは、人格の形成という非常に困難な仕事に対して、今述べた方法とは違う別の方法を発見したと考えた。私はこれを「自己決定」(Decision-Making)の方法と呼んでいる。しかし、結果的には、彼らの方法による教育は、子供たちの道徳性を希薄化したにすぎない。


まず、彼らの方法論に焦点を当て、なぜそれが有害であるかを検証したい。これは日本にとって、かなり有益であろうと思う。というのは、米国で失敗した道徳教育が、諸外国に輸出される可能性が高いからである。私が各国を視察して驚くのは、諸外国の教育者たちが、米国教育における最も良くない部分を熱心に取り入れていることである。


「自己決定」の方法論は、現在の米国では1960年代に失敗した単なる一つの流行だったと非難されているが、諸外国に対しては、最新の方法として紹介されている。これは、実際には大きな害をもたらす可能性をもった時代遅れの方法で、厳密に点検されなければならない米国からの「輸出品」なのである。 >レイプを容認する子供たち   どのような害がもたらされたのか、一例をあげてみよう。


数年前、ロードアイランド州にある「レイプ・クライシス・センター」が、全国の6年生から9年生1,700名に対して、レイプに対する意識調査を実施した。この調査結果を見て驚いたのは、調査した男子の65%が「レイプは一定状況下においては容認できる」と考えていたことである。その「一定状況」の一つは、男性が女性を誘って20ドルくらいのお金を使うような場合である。また、もう一つ驚いた点は、多くの女子がやはり「レイプは特定状況下においては容認できる」としていたことである。


この調査結果に対して、「なぜ、学校で価値観教育をしないのか」、あるいは「性教育をしないのか」といった疑問が上がった。それに対する回答は、「もちろん、そういう教科はある」で、確かに過去20年にわたって、こうした教育課程は急増している。また近年、価値観教育、性教育に対して、膨大な予算と人材が投入されてきた。そこで、こうしたプログラムが、現実に解決すべき諸問題に対して本当に有効なのかどうか、疑問が呈されたのである。


「なぜ、善悪を見極めることができないのだろうか」。善悪の違いについて、私たちが十分教えていないからともいえる。あるいは、その代わりに「実験的方法」(子供自身に道徳性を確立させようとする実験)に頼っているからともいえる。この実験はさまざまな名称で進められている。


例えば、「価値の明確化」(教師が価値を教えるのではなく、生徒が自分の価値観を明確にできるよう助けるという手法)「道徳の理論化」「自己決定」「批判的思考」あるいは「生活技術」などである。


名称は何であれ、それぞれの前提は同じで、「大人には何が善であり何が悪であるかということを語る権利はない」というものである。時にはそれが一つの教育課程となり、また性教育や麻薬教育の一つの戦略となっている。そして、自己決定の方法が、米国の学校教育における道徳教育の基調を作ってきているのである。


他の教育分野においては、このような自己決定の方法は使われていない。例えば学生たちに対して、登校するか否かの決定を彼ら自身に委ねるということはない。また、化学の授業において、何と何を混ぜてどのような化合物を作るかを彼ら自身に決定させるわけではない。もしそのようなことをすれば、まさに「爆発的」な結果になってしまいかねないからである。 道徳教育における実験の結果も、爆発的なものであった。子供たちが大人の指導なしに、自ら「道徳性」の基準を作り上げてしまうとどうなるかは、火を見るよりも明らかである。


1940年代から50年代において、教師たちは、子供がガムを噛んだり、廊下を走ることを気にかけていた。しかし、今日では、暴行や強盗、レイプの心配をしている。