ギャング映画に核戦争の影を見る | 奥村顕のワールドプリズム Ken Okumura's WORLD PRISM

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日々の生活やニュースの背景に潜む本質を取りこぼさす、言語化して提示することを目指します。

最近、私の脳裏に何度となく甦ってくる映画の一場面がある。ブラジル映画「City of God」の中で、子供のギャングが大人に銃を突き付けて脅す場面だ。大人の側はこんな子供に自分を撃てるはずがないという表情で、せせら笑うような態度を取るが、難なく撃たれてしまう。

なぜ撃たれないと思ったのだろうか。それは無法地帯で生きていても、心の奥底では成長することの価値を信じていたからではないか。自分はこれまで、相手より長く生きてきた。多くの経験も積んでいる。だから、子供とは比較にならないような人間的な厚みが具わっている。

しかし、銃を撃つという行為は引き金を引くだけであり、むしろ成長していない方が見境なく実行できる。

さて、最大の破壊力を持つ武器は核兵器だ。戦争はすべて人間性の破壊をもたらすが、通常兵器による戦争の場合は、リーダーシップを発揮したり、世界の人々を説得したりという営為が必要だ。一方、核兵器は指先ひとつで状況を大きく変える力を持つ。

だから、核兵器による現状変更を目指す者は、自らの人間的成長を放棄できる。核兵器の本当の恐ろしさは、ここにある。そして、核兵器の持つ悪魔的な魅力の正体も、精神的な退行を許してくれるという点にある。

人類が農業を始めてから1万5千年が経過した。核兵器の開発から現在まで80年しか経っていないのに、人類は少なくとも2度、核戦争の危機を経験している。単純に計算すると、今後の1万5千年で375回も同様の危機を迎えることになる。私たちはそれらの全てを乗り越えてゆけるだろうか。人類の文明は偉大なものだから、易々と破壊できるはずがないと考えるならば、核兵器が本来的に持つ精神的な退行との親和性を度外視しているように思えてならない。