人はどこかで、

「分かり合えるはずだ」と思ってしまう。


外国人相手なら、

文化も言語も違うのだから

理解できないことがあっても仕方がない、と納得できる。


けれど、

同じ日本人、

長年の友人、

長年の恋人、

家族――

そうした相手に対しては、

なぜか「言葉が通じるはずだ」と思い込んでしまう。


同じ言語を話していても、

人は実際には

まったく違う世界の見え方をしている。


人は、無意識に相手へレッテルを貼る。

それも驚くほど簡単に、

自分の都合のいい意味を与えて。


本来、人は理解し合うために話し合う。

だが、現実には

「話し合いそのものが成立しない人間」

というものが確かに存在する。


それは能力や善悪の問題ではなく、

文化の違いに近い。


家庭環境、

両親の性格や関係性、

祖父母の影響、

兄弟構成、

家の中で与えられた役割――


それらによって、

同じ社会に生き、

同じ言語を使っていても、

人はそれぞれ別の「意味の世界」を生きることになる。


さらに言えば、

同じ親から、同じように傷つけられたとしても、

受け取る側が同じ傷を負うとは限らない。


同じ出来事でも、

受け取り方も、残る痛みの形も、人それぞれ違う。


だから、

「分かってもらえるはず」

「言えば通じるはず」

という期待は、

時に人を深く傷つける。


分かり合えないことがある――

それ自体が異常なのではなく、

むしろ、ごく自然なことなのかもしれない。