伊達順之助を知ろう
本日、8/22(木)も通常通り営業しておりますので
初めての方も、お1人様もお気軽にお越しください
と、いうことで
きのーも、
いろえろありましたが割愛でーす
そんな中
S本さんから暑中見舞いをいただきましたぁっ
いつもありがとっ
相方がいつも喜びの舞を踊るっス
と、いうことで
最近、知ったんですが
戦前、伊達政宗直系の子孫にとんでもないアウトローがいたのを知っていますか?
伊達政宗直系の子孫『伊達順之助』という超武闘派の男
①明治維新から25年経った年に、伊達政宗直系の子孫として生誕。
②順之助は『華族』の家に生まれながら、大変素行が悪く、いくつもの中学校を転々とさせられます。
③ちなみに、学習院へは「皇族の方に迷惑がかかる」ということで入学させてもらえませんでした。
④18歳の頃、縄張り争いから相手のヤクザをピストルで射殺。
伊達家が雇った日本初の私立探偵である岩井三郎が、射殺時の状況を数ヶ月かけて徹底調査、順之助の正当防衛を実証します。
ちなみに『岩井三郎事務所』には、日本を代表するミステリー作家である江戸川乱歩が働いていました。
⑤1916年(大正5年)、モンゴル独立運動に参加するため『満蒙決死隊』を結成した順之助は、張作霖(ちょうさくりん)(中華民国の馬賊の頭領、政治家)の存在が独立運動には邪魔と判断、暗殺を計画するも失敗。
⑥順之助は山縣有朋の暗殺を計画。しかし実行されず、翌年、山縣は病死。
⑦順之助は『大陸浪人』として中国大陸に渡り暴れまわります。
⑧1919年(大正8年)、朝鮮に渡り『朝鮮国境警備隊』に入隊し隊長となり、武装朝鮮人のアジトを急襲するなど活躍。
⑨一度、帰国するも1924年(大正13年)、中国大陸の奉天に渡り、7年前に暗殺しようと試みた張作霖の傘下に入る。
⑩1929年(昭和4年)、中華民国の軍人である張宗昌(ちょうそうしょう)と義兄弟の契りを交わす。
⑪1931年(昭和6年)、中華民国に帰化し、張宗援を名乗る。
⑫1932年(昭和7年)、『満州国』建国。
『満洲陸軍中将』を自称し、馬賊を従えながら各地を荒らしまわる。
⑬1937年(昭和12年)、日本陸軍大将の寺内寿一(ひさいち)が『北支那方面軍司令官』に就任した事で、中国各地を荒らしまわりながら機を窺っていた順之助にチャンスが訪れた。
寺内は『山東自治連軍』を編成。
大将に指名された順之助は四千人の兵をしたがえて山東省に入りました。
順之助の暴れっぷりは有名になっており、現地の人達から恐怖をもって迎えられていたのでした。
⑮第二次世界大戦が終わると、順之助は日本人戦犯として青島で捕らえられます。
判決は死刑。
処刑当日、かつて日本人馬賊として恐れられた順之助の最期を見ようと、多数の見物人がやってきました。
順之助は処刑椅子に座るや豪快に笑ったところを、処刑人はすかさず頭部目がけて銃弾を発射。
1948年(昭和23年)9月9日死去。享年56。
と、いう激しい人生の男の話だよ。
今宵も皆様のお越しを心よりお待ちしております
=じきるますたぁ~=