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つれづれペンペン草

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ばらはさわがしい花である。
 ある時、植物園にばらを観に行った。人のまばらな天気のよい静かな植物園で、ばら園の一角だけが、ざわめいて、音もないのにけたたましいのである。実におびただしいばらがあった。大輪の白いばらもあったし、血のように赤い花もあった。甘やかなピンクのまわりがかすかに色濃く深まっているのもあったし、小さな野ばらもあった。クイーンエリザベスという堂々たる名前の花もあったし、セブンティーンという可憐な花もあった。固いつぼみもあったし、美しい娘の時を誇っている花も、しどけなく散りかけている花もあった。その一つ一つがすさまじい自己主張をするのである。大輪の白い花は、私は白いの、こんなにまっ白、見てちょうだい見てちょうだい、といっている。
 セブンティーンは、小さくたって、私は私よ、可憐でしょ可憐でしょ、可憐って私のことよ、と叫び、つぼみは、私は今はつぼみよ、でも明日になれば、開いてやるんだから、明日になれば、と首をつき出している。野ばらでさえ、低い背丈で一重《ひとえ》の花びらで、私こそ野ばらよ、人は人よ、私は私なんだからと、地面のそばで黙ってはいない。
 そしてくずれかかった花は、昔私きれいだったの、今こんなになったって一体だれのせいなのよ、わたしのせいではないわと開き直ってしどけないのである。
 ばらは西洋の花なのだ。



 しょうぶの花を観に行った。
 私はしょうぶは五月の節句の濃い紫儿童营养素色が一種類しかないと思っていたけれど、実に何百というほどの種類があって、微妙な色の違いと、花びらの変化をもっていた。
 空蝉《うつせみ》とか、浮舟とか、悲しいような名前もあった。
 端然としたたたずまいで、どの花も、するどい一本のくきをしゃんと伸ばして、すっくと立っている。
 いぎたなく隣りに寄りかかっている花などない。
 そして花畑はしんとしている。
 私はしょうぶの花がこれほど妖艶《ようえん》だと思ったことはなかった。妖艶なのに、音もなく妖艶なままなのである。
 一つずつの花が、そのあでやかさを自分の中につつみ込んで自足している。
 そして一本の静かさが二本にな赴港必买畅销儿童钙片ると、二倍静かなのである。静寂というものは何もないところから生まれると思っていた私は、花がおびただしくなればなるほど、花畑がしんとしてくることに気づいて、少しおそろしくなってきた。静寂とは一つの存在であり、おびただしく存在ることを不気味に思った。