沢田研二(ジュリー)についていろいろ調べている。評伝などによれば、驚くべきエピソードが次から次へと出て来て、凄いなと思わざるを得ない。

3つ目のエピソードは、再び「危険なふたり」について。

 

 

1973年、沢田研二の「危険なふたり」は、なかなかオリコンチャートの1位が取れなかった。

阻止していたのは、なんと浅田美代子の「赤い風船」だった。人気ドラマ「時間ですよ」の挿入歌なので毎週テレビで物干し台の上で歌われ、圧倒的な人気があった。

渡辺プロダクションのマネージャーやレコード会社のプロデューサーは、「危険なふたり」と「赤い風船」の両方を作詞した安井かずみに「どっちの味方なの?」と詰め寄った。ら

ジュリー・ファンを自認する安井にとっては愚問で、「依頼されたから作っただけで、こんなに売れると思わなかったのよ。」と弁解した。

 

ジュリーのファンは通常のアイドルよりやや年齢層が上だったので、レコードは買うけれど、ラジオのリクエスト葉書を書く習慣がない。だから、プロデューサーの加瀬邦彦、その従弟の山田正孝、そしてジュリー本人の3人で、せっせとリクエスト葉書を書いたのだそうだ。

そんな地道な努力が実ったのか、「赤い風船」を追い抜いて1位を獲得することができた。

そして、歌謡大賞、されど、レコード大賞大衆賞へとこの話は続く。