沢田研二(ジュリー)についていろいろ調べている。評伝などによれば、驚くべきエピソードが次から次へと出て来て、凄いなと思わざるを得ない。

2つ目のエピソードは、「危険なふたり」について。

 

 

1973年、沢田研二の「危険なふたり」は、軽快なリズムに乗ってヒットを続けていた。

渡辺プロダクションのマネージャーやレコード会社のプロデューサーは、レコード大賞を狙えると期待していた。

一方、ライバルになるであろう五木ひろしの「ふるさと」は地味な歌だったため、レコード売上で大きく水を開けられていた。前哨戦の日本歌謡大賞は、「危険なふたり」だった。

ジュリーの世話役だった内田裕也をはじめ、萩原健一を含む友人グループは、大賞を疑わなかった。

ところが、レコード大賞候補曲の発表の場で、「危険なふたり」は大衆賞となり、大賞が狙える歌唱賞から梯子を外された形となった。

この時、内田裕也を先頭にジュリーの友達たちは、レコード大賞の関係者たちに「どういうことだよ!」と詰め寄ったと言われている。(ジュリー・ファンもこの時のことを腑に落ちないと今でも語る人は大勢いる。)

 

天下の渡辺プロダクションの所属の沢田研二がどうして弱小事務所の五木ひろしと勝負さえさせてもらえなかったのか?それは、その後のレコード大賞受賞者を見れば、よくわかる。1974年に森進一「襟裳岬」、1975年に布施明「シクラメンのかほり」と続く。事務所の中の年功序列から言って、沢田研二は少し若かったのではないか? 「森も布施も獲っていないのに、沢田が先か?」ということでナベプロも力が入っていなかったのではないか? そんな気がしてならない。