沢田研二(ジュリー)についていろいろ調べている。評伝などによれば、驚くべきエピソードが次から次へと出て来て、凄いなと思わざるを得ない。

これから、シリーズで書いてみた

 

1976年の「愛のコリーダ」の後で、大島渚はカンヌ映画祭でグランプリを獲得しようと「戦場のメリークリスマス」を企画していた。デビット・ボウイが出演を承諾した後で、相手役として沢田研二に打診した。

沢田も乗り気で、当時世話人をしていた内田裕也とともにホテルオークラに大島渚を訪ねた。

ところが、ジュリーは出演に条件を付けた。

「そのスケジュールでは、国内ツアーが予定されています。100人以上のスタッフの生活がかかっています。僕の独断で辞めるわけには参りません。スケジュールをずらしていただくことはできませんか?」

内田裕也はシマッタと思った。

ツアーがあるので、デビット・ボウイとスケジュール調整しろと言うのか? 

プライドの高い大島渚は机を蹴るように立ち上がった。

「もういい、この話は終わりだ!」

 

ジュリー・ファンとしては、本当に残念な話だ。坂本龍一ではなくて、沢田研二だったら、カンヌのグランプリを取れたかも知れない。ジュリーが世界的な映画スターになれたかも知れない。

でも、歌とそのスタッフを大切にするジュリーも素敵だと思い直すことにしたい。