シャンソンは、メロディ(音楽)だけでなく、歌詞の言語的部分(言葉)と演劇的部分(映像)、この3つが立体的に繋がり合って完成するものだ。

つまり、音楽と言葉と映像が一体となったアートである。

 

 

ところが、日本語シャンソンの場合、メロディは同じでも、2つ目の言語的部分はいくら上手に訳詞したところで訳し切れないし日本的な解釈がどうしても含まれてしまう。また、演劇的な部分も日本語詞の解釈が反映されてまってニュアンスが違ってしまうことも多い。

つまり、3要素のうち2要素が日本流となることから、元のシャンソンとは「別物」となってしまう。

これは、フランスと文化のバックボーンが違う日本で模倣されたものだから、仕方がないことかもしれない。

 

歌詞はフランス語でわからなくても、歌手が唄っている姿も見たことがなくても、シャンソンのメロディを聞いて良いと思えば十分ではないか?とおっしゃる方がいるが、これは、私に言わせれば、シャンソンたるものが何かを理解されていない人の言い分だ。

フランク・プウルセルやレイモンド・ルフェーブル、ポール・モーリアなどの演奏を私も素晴らしいと思うが、シャンソンではないと思う。