1960年代の歌謡界には、ダンスミュージックを歌える女性歌手がいた。弘田三枝子や黛ジュンらだ。

それが70年代になると、南沙織や天地真理らのアイドル歌謡が台頭して、ダンスとの結びつきが薄くなってしまう。

ところが、1975年になると、流れが変わる。その新しい潮流がピンクレディーが登場する下地を作ったのではないかと私は思う。

 

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それはディスコ・ブームだった。ちょうど大学生だった私は、六本木や新宿に次々と大フロアのディスコができるのを目撃し、実際に踊りに行った。アバはそれ以前から流行っていたが、ビージーズの "You shoud be dancing" や K.C.& Sunshine Band の "That's the way"が大ヒットした。

阿久悠は、世代から言ってディスコ文化にはさほど興味が無かったと思われるが、彼とコンビを組むことの多かった都倉俊一はなんとか歌謡曲にディスコサウンドを取り込めないか模索していたに違いない。

そこに、「私たちは合格するためにフォーク・デュオのフリをしただけで、ほんとはダンスが好きなんだ。」と言う二人組(ミーとケイ)が現れたのだから、チャンス到来だった。