日本の敗戦後、進駐軍を観客にジャズを演奏していたミュージシャンたちのうち、渡辺晋はナベプロ、堀威夫はホリプロ、相澤與四郎はサンミュージックを作って、自分で演奏することはやめて、若いポップス歌手の育成に専念した。

一方で、越路吹雪は内藤法美と結婚し、ピアノ、アレンジ、音楽監督、音楽事務所を夫に任せ、作詞とマネジメントは岩谷時子に任せ、自分は歌とお芝居に専念した。

ところが、同じように米軍人たちに歌を披露していた石井好子は第三の道を選んだ。

 

 

石井好子は歌うのを続け、新しい歌に挑戦したり訳詞をしたりする一方で、事務所を作り、新人の発掘、後輩の育成、シャンソンフェスティバルの開催、フランスとの交流、本場のシャンソンの日本への紹介などプロデュース業も始め、おまけにエッセイなどの著述業も兼業した。

マルチに活躍した点は偉業と言えるのだが、歌手に専念することはできなかったのか?と思うと、かなり残念な気がする。あるいは、きっぱり歌は捨てて、プロデュース業や事務所社長、シャンソン協会代表理事だけに専念していたらどうなっていただろう?と思ったりもする。