桜田淳子は、デビューが同期の山口百恵に1977年以降レコード売上で大きく差をつけられてしまい、ついに作詞家を阿久悠から別の人に替えることになった。

その時、淳子陣営が選んだのは、中島みゆきだった。実は、それには、ロールモデルがあった。

 

 

それは、研ナオコだった。

彼女は、1971年4月に「大都会のやさぐれ女」でデビューし、2曲目からは阿久悠が作詞、筒美京平や森田公一が作曲したが、残念ながらヒットは無かった。

レコード会社を東宝からキャニオンに移籍し、1975年9月に阿木燿子・宇崎竜童コンビで「愚図」を出したことで、初めてトップ10に入るヒットを飛ばした。

ところがこの「愚図」の成功を見た酒井正利が阿木・宇崎夫妻を山口百恵の曲作りに迎え、1976年6月に「横須賀ストーリー」を出すことになり、研ナオコ陣営は新たな作詞・作曲家として中島みゆきに白羽の矢を立てた。

シンガーソングライターの中島みゆきは、研ナオコに書いた「LA.LA.LA.」が他人のために書いた初めての歌だった。

そして、2曲目の「あばよ」が週間チャート1位の大ヒットとなった。

 

桜田淳子の阿久悠から中島みゆきという作詞家変更は、この研ナオコの好事例があってのことだった。「しあわせ芝居」は、こうしてレコーディングされた。