シャンソンを聴きに行くと言えば、昔ならヤマハホール、銀巴里、日生劇場、日劇、日比谷の野音など銀座・有楽町方面が容易に思い浮かんだことだろう。

どうしてそうなったのか?

最初は、何から始まったのか?

 

 

話は古くなるが、関東大震災で焼け野原になった東京に見切りをつけた財界人、文化人は、一旦関西に居を移した。それに呼応して宝塚でモンパリというレビューが披露され、日本で初めてシャンソンが劇場で歌われた。

その後、東京の復興で、ホワイトカラーは丸の内に、文化人は銀座に帰って来た。戻った彼らを取り込もうと思ったのが、阪急・東宝グループの総帥・小林一三だった。彼が企画したのが、『日比谷ブロードウェイ計画』だった。

この計画がトリガーになって、宝塚、越路吹雪などのシャンソンの主要なソフトがあの辺りに集結することになり、シャンソンのメッカとなるバックグラウンドを作ったのではないだろうか...