美空ひばりは、ステージママの母親が苗字の加藤を美空に替え、名前は和枝のままで、「美空和枝」として活動していました。そして、1947年に伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、そこで演出をしていた岡田恵吉に「美空ひばり」と名付けて貰ったのでした。

丸山明宏(美輪明宏)は、霊理学派姓名研究会の伊藤晴康の鑑定に従って、本名の丸山臣吾から明宏に改めました。ここまでは、岡田恵吉は登場しません。

 

 

丸山明宏は、16歳から銀座のサロンで歌い始め、18歳の1952年のある晩、前座をつとめたシャンソン歌手の橘かほるに見いだされ、銀巴里で専属楽団を率いていた原幸太郎に師事することになりました。

その原幸太郎が新宿のラセーヌに引き抜かれた後も、丸山明宏は銀巴里で歌い続け、一度寂れた銀巴里を満員に戻すまでに至ります。その成果を橘かほるに報告すると、今度は宝塚歌劇の演出家である岡田恵吉を紹介されました。

ここで、再び、岡田恵吉の登場です。

彼は、日劇ミュージックホールの正月興行(1957年1月)への出演者を探していて、面接して直ぐに丸山明宏の出演を決めたのでした。

演目は、ブロードウェイのヒット・ミュージカル「お茶と同情」で、当時としては扱いが難しい同性愛を主題にした作品でした。

岡田は、ゲイという直接的な表現は避け、わかる人にはわかる遠回しの表現である「シスターボーイ」を使うことにします。そして、その舞台の宣伝もかねて、丸山明宏の別の呼び名として「シスターボーイ」を世間に広める手立てを打ったのでした。

つまり、岡田恵吉は、美空ひばりと丸山明宏(美輪明宏)の両方の名付け親となったのでした。

 

出典: 佐藤剛 「美輪明宏と『ヨイトマケの唄』天才たちはいかにして出会ったのか」文藝春秋