高峰秀子の「巴里ひとりある記」には、帰国後の徳川夢声との対談が附録されていて、なかなか面白いです。

その対談で分かったのですが、高峰秀子は、パリでシャンソンを聴けなかったようです。

 

 

対談の一部を抜粋すると...

 

夢声 

ジゴロなんてぇ奴は見なかった?

秀子 

そういうとこ、いかれないもの。だから、シャンソンをききたいなんて思ったって、なかなかたいへんなの。場末のむずかしいところへいかなくちゃなんないんでしょ?つれてってもらう人いないんですよ。

夢声

じゃア、日本に名の知れてるような歌い手はきかなかったね。

秀子

ダミアなんかやってるらしいけどね、きかなかった。きたない路次の奥みたいなところでやってんですって。大きなキャバレーみたいなものは二、三ヶ所いったけど、ストリップやってた。

 

2年後の1953年に越路吹雪がパリ滞在した時は、場末のキャバレーに行ってシャンソンを聴いています。

この違いは、何だったのでしょう?

 

一つ目の答えは、石井好子の存在です。

高峰秀子がパリ滞在したのが1951年で、石井好子がパリで歌手活動を始めたのが1952年でした。彼女がいれば、連れて行ってくれたはずです。

 

二つ目の答えは、パリを案内した文化人の違いもあります。

高峰の相手をしたのが中原淳一。ストイックで病気がちな彼は役不足だったのかもしれません。

越路の相手をしたのは、小林秀雄と今日出海。フランス通で面白いもの好きな洒落者の二人。この差も大きいかもしれません。