高木東六の自宅に、若き日の宇井あきらがシャンソンの指導を求めて訪ねた時の話です。宇井に「ラ・セーヌ」や「ラ・メール」、「枯葉」や「パダム・パダム」を歌わせた後で、以下のように感想を言いました。


 

「シャンソンというものは、クラシックと違うことを、先ず最初に知っておかなくちゃならないだろうね。と言うのは、君の今歌ったシャンソンなるものの中には、シューベルトやシューマンのリード的なものが感じられるし、イタリーなどのナポリの民謡的情緒にある甘いあちゃらの、のど自慢的要素を含む歌いぶりも感じられるんだね。要するに君のシャンソンは南国的なベルカントとドイツ的知性を含んでいるオーソドックスなものに、さらにシャンソン的なものを加えた、複雑な印象なんだね。ぼくはそれが悪いなどというのでは決してないんだよ。ただ言い替えれば、シャンソンと呼ぶためには、声も表現もいささか本格的すぎるようだ。しかしシャンソンは声楽的にも本格的な歌いっぷりを勿論要求することもたくさんあるわけだが、ぼく達の現代考えているシャンソンには、そうした本格的を思わせる立派な歌いぶりを考えにいれてないのだ。つまりシャンソンのもっている本質的な要素には、そんな堂々としたものが似合わしくないと思えるんだよ。」

 

「自分はシャンソンの専門家ではないから」と言いながらも、結構確信を突いた説明をされていると思います。

私が同じ趣旨のことを書こうとして、「シャンソンはクラシック流の歌い方をしないで欲しい」とアジテーションな表現しかできないところを、柔らかい言い回しで実に上手く話されたものだと感心しております。

 

出典: 高木東六 「シャンソン」 修道社

 

 

 

ジャンマリの Official Web Site