16日に無事病院に着いた。


サーベイを受け、自宅に戻った。

すぐに風呂に入り、あっという間に寝てしまった。

疲れはピークであったが、翌日6時に起きてしまった。

ゆっくりと休んだほうがいいと言われていたが、通常通り出勤し、対策本部に入った。


発災から時間がたっても対策本部は、情報の錯綜などに未ださいなまれ、全国のDMATの動きを把握し不眠不休の活動を行っていた。寝ていない職員を一旦家に帰し、自分が代わりに本部調整員として入った。


誰が悪いわけではないが、大規模な搬送ミッションを1日がかりで計画したものの・・・中止

代わりに、小規模な多数の搬送ミッションを担当することになった。


すでにDMATは1次隊、2次隊、3次隊を派遣しており、さらに救護班などで活動する隊員も多く、追加派遣する余裕はなかったのであろう。


そのため搬送ミッションに災害医療センターからも2チームの追加派遣が決定した。

しかし活動中の隊員を含め、すでに24名を投入し、対策本部もある。

隊員決定まで本部でも苦慮し、特に調整員の不足は大きかった。

そのため私を含め、調整員2名とも2度目の派遣になるが、出動が決定した。


23時近かったであろうか?

自宅に戻り、準備をした。

正直にいえば、情報が錯綜し、日々深刻な状態であった福島原発。

風評被害も大きく、福島=危険というイメージが少なからずあっただろう。


翌朝福島に行くことを告げ、家族には「安全だ」と伝えた。


いくら言っても家族が心配するのは当たり前だ。


「今、誰かがやらなきゃいけないから」

「自分が行くことで1人でも多くの災害死を防ぐための患者搬送ミッションを達成してくる」

そう伝えて家を出た。


伝えたセリフはきれいごとだ。

本心は自分たちの1チームが、数人運んだところで、焼け石に水なのかも・・・・と少しネガティブだった。


ただ、全国の医療班が同じように、焼け石に水をぶっかけ続ければ何とかなるかもしれない。

そう自分を奮い立たせて、出発した。






事務局WEB担当です。


発災から3日目の夜、ようやく横になることができた。

岩手県庁から福島県庁災害対策本部へ行くことになりました。


ようやく家族に連絡をし、福島行きを告げると、やはり原発問題を気にしていた。

被ばく医療にも精通した医師と一緒に行動していたため、ある程度の安全面の説明をし

少しは安心したようだ。「誰かが行かないといけないもんね。がんばって」という言葉で

後押ししてくれた。


福島県庁に到着後、水素爆発。

予想はしていたものの、まさか・・・・

傷病者の情報が錯綜し、あわただしく放射線医学研究所チームが、搬送のために準備にはいる。


医療調整はあまり機能しているとは言い難く、医療チーム、サーベイチームが入り乱れ、K医師が調整した。

わたしもできる限り、情報をとり、電子化してチームの一覧、緊急連絡体制を構築した。

膨大な作業をこなした疲労感と、爆発という言葉だけが恐怖を煽り、心身ともに限界が近かった。


2日間でサーベイチームの代表者、日赤、国立病院機構、福島県を交え活動調整を行い

医療調整本部としての機能が立ちあがてきた。

偶然、災害医療センターのサーベイチームがいたため、一緒に撤収してよいか、本部長に確認した。


志し半ばというところであったが、心身の疲労がピークであり、一旦撤収し、休養をとり、戻ってくることを告げた。

偶然にも他院の信頼できる調整員がいたので、安心して任せ、撤収することになった。


その後まさかの静岡での震度6強・・・・

完全に心が折れた感じがした。

車で移動中、幸い大きな被害はないとすぐに情報があり、安堵感で携帯を持ったまま寝てしまった。


ホテルにつき、災害用ユニフォームをみて、ふと隊員証に目がいった。

隊員証、初めてじっくり見たかもしれない。

隊員証を取り出し、業務調整員とかかれた、いたって普通のプラスチックの隊員証。

普段は、財布の中にいれてあるだけだが、この未曽有の大災害での活動を思い出しながら

この隊員証を持つことの重責を初めて感じた。


必ず戻ろう。まだまだ自分の仕事はあるはずだ。

そう心に決め、気がついたら眠って朝を迎えた。



東北地方太平洋沖地震は、観測史上最大M9.0という強大なエネルギーかつ、非常に大きな津波を伴う形で、東北地方を中心に東日本太平洋側に著しく甚大な被害をもたらしました。

この地震により、お亡くなりになられた方々へのご冥福をお祈り申し上げますと共に、被災者の皆様とご家族に心からお見舞いを申し上げます。


DMATにおいては、災害発生直後より、本災害への迅速な対応を行いました。

DMAT活動で通常想定される超急性期対応での活動においては、今までの震災とは全く異なるものでした。


通常、DMATの対応は、超急性期に災害現場または、災害拠点病院などに赴き、病院支援をして病院の機能が損なわれないように活動をしたり、いわゆるトリアージの赤タグを治療、もしくは被災地以外の高度な医療を受けられる場所まで、広域医療搬送を行うのがミッションとなります。


私が発災2日後に岩手県庁に入った際に感じたのは、これだけ巨大な地震にもかかわらず、重傷者が圧倒的に少ないと感じました。


今回の災害では津波による被害が大きく、まさに生きるか死ぬかの状態で、命を失ってしまうか、無傷か両極端があまりにも多かったのかもしれません。


岩手県庁内では、遺体が発見された、という情報が多く入ってきて、それも数百という単位で。


それには医療はとにかく無力・・・・


私は業務調整員ということで医療行為はできません、そのため、被災の全体像を把握し、悲痛な叫びで助けをまっている被災した病院、現場、避難所などへ効率よくDMAT隊を配置し、自治体・消防・警察・自衛隊など関連機関と調整をし、多数の人を救う環境を整えることが、今回自分が与えられたミッションだと思っていました。


しかし現実はうまくいかない、悲痛な訴えに待ってくださいとしか言えない悔しさと虚しさ


ライフラインがすべてダメで診療ができない


毛布だけでいいから送ってほしい


透析用の水がない


人工呼吸器患者に使う酸素がない


患者が多数押し寄せて対応できない


どんなに調整しても、すべては救えない。多数を救うにはどうしたらいいか?

68時間不眠不休で活動し、正直1件1件にどう対応したのか覚えていない程だ。


ゆっくりと気持ちも整理でき、自分のやれるべき範囲の全力は尽くしただろうと感じています。


専門的なトレーニングを積んでいる我々でさえも、想像をはるかに超越した大災害であったのは間違いなく、どんな形にせよ、DMATとして、ある程度組織的な活動をできたのではないかと思ってます。

阪神淡路の1000倍のエネルギーということは、1000回分が1回で来たということになるのでしょうね・・・


現在も様々な形で、この未曽有の災害と戦っている皆様、とにかく安全に頑張ってください!


※このブログは事務局の公式見解ではありません