目的を達成するために作られたルールが、いつの間にか金科玉条となってしまい、
ルールを守ること自体が目的になってしまうパターンを方々で見かける。

手段と目的が逆転しているのだ。

そのような人の集まりは、思考が膠着化していて
状況の変化に柔軟に対応するのに困難を極める。

イエスの時代にもそんな頭の固い人たちが存在した。

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ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、
イエスのもとに集まった。
そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、
つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。

――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、
昔の人の言い伝えを固く守って、
念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。
そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、
昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――

そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。
「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、
汚れた手で食事をするのですか。」

イエスは言われた。
「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。
 彼はこう書いている。

 『この民は口先ではわたしを敬うが、
  その心はわたしから遠く離れている。
  人間の戒めを教えとしておしえ、
  むなしくわたしをあがめている。』

 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

  マルコによる福音書7:1-8
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ファリサイ派の人々と律法学者たちは、イエスの弟子たちを見て驚いた。

なぜなら、彼らが手を洗わずに食事をしていたから。

当時、彼らが手を洗わずに食事をすることはなかった。
それは衛生面の観点からというより、
恐怖心からと言っていいだろう。

それは儀式のようなものだった。
他にも、市場から帰ったら体を洗うとか、食器や寝台を洗うこととか、
「昔から受け継いで固く守っていること」が彼らにはたくさんあった。

ちなみに、それらは神の律法の書には存在していない教えであった。
そもそも神の律法は、愛に基づいたものである。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、
  あなたの神である主を愛しなさい。』
 これが最も重要な第一の掟である。
 第二も、これと同じように重要である。
 『隣人を自分のように愛しなさい。』
 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
                   (マタイ22:37-40)

では、単なる人間の言い伝えに過ぎないものを
なぜ彼らは頑なに守っていたのだろう?

おそらく、ルールから外れるのが怖かったのだろう。

彼らの思考は人間の作り出したルールでがんじがらめになっていた。
自由で柔軟な発想ができなくなっていたのだ。

残念なことに、当時、イエスの言うことを素直に受け入れられなかった人々は、
このグループに多かった。

あなたの会社にも固く守っている掟というものがあるかもしれない。

それらは何のためにあるのか?

それが社員の自由な行動を縛りつけ、柔軟な発想を妨害しているとしたら、
思い切って見なおすことを考慮した方がいい。

ちっぽけなこだわりのために、
本当に大事なものを見失ってしまうかもしれないからだ。

「愛には恐れがない。」 (Ⅰヨハネ4:18)。