入り口は広いが、出口がない迷路。
原子力発電を一言で形容すれば、そうなるだろう。
原発には大量の高レベル核廃棄物 が出る。
極めて有害な物質で、無害化 するには万年単位の時間 が必要。
つまり、原発は使ったら最後、未来の世代に厄介な遺産を残すことになる。
それこそ、人類が滅亡するのが先か、無害化するのが先か。
ところが、ここで言いたいことは単なる原発批判ではない。
原発は遠い未来に用いられるべき発電手段だったのではないか、
と考えてみたいのだ。
そもそも、米国にとってウランを用いた発電の魅力は、
プルトニウム という核廃棄物が出来るところ だった。
(※ウラン濃縮 の際に弾丸の材料になる劣化ウラン も産出される)
すなわち、プルトニウムは核兵器に転用できるため、
軍事とエネルギーという 2 つの安全保障を一挙に解決する妙案だったわけだ。
ところが、現代は核不拡散 を原則として、保有国 ですら削減を志向する時代である。
必然的に使い切れないほどのプルトニウムが手元に残る。
(※第一、軽水炉で産出されるプルトニウムは軍事転用が困難 ←ここ意外に重要)
そもそも、日本やフィンランド といった核保有が許されない国にとっては、
まったく無用の長物に過ぎない。
解決策と目されたプルサーマル は実用的ではないし、
高速増殖炉 に至っては実用段階ですらない。
よって、当初はエネルギー確保と軍事転用という
二重の目的で開発された原発は、既に利用価値が薄れてきている。
あるいは、その使命を終えてしまっている。
軽水炉であれ、話題のトリウム原発(=溶融塩炉 )であれ、
一定の核廃棄物が残されてしまう点は変わらない。
(※無害化に必要な年数が数万から数百に変わる 程度)
悪臭漂うゴミを安全に処理する手法が確立されていない以上、
原発は技術的に未完成、と言わざるを得ない。
すなわち、出口がない迷路なのだ。
しかし、原発は捨て去るべき技術なのだろうか。
確かに危険ではあるが、未来に残しておくべき技術であることには間違いない。
そう、技術自体を捨て去る必要はまったくないのだ。
だから、基礎的な研究は引き続き行われるべきだし、
実験炉くらいなら作っても良いだろう。
ただし、実用化する必要はないし、絶対にしてはならない。
人類が完全な制御方法を確立する日まで、原発に「充電期間」を取ってもらうのだ。