逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯 -26ページ目

逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯

A Counterpoint of the Formless Self and the Omnipotent

入り口は広いが、出口がない迷路。


原子力発電を一言で形容すれば、そうなるだろう。



原発には大量の高レベル核廃棄物 が出る。


極めて有害な物質で、無害化 するには万年単位の時間 が必要。


つまり、原発は使ったら最後、未来の世代に厄介な遺産を残すことになる。


それこそ、人類が滅亡するのが先か、無害化するのが先か。



ところが、ここで言いたいことは単なる原発批判ではない。


原発は遠い未来に用いられるべき発電手段だったのではないか、


と考えてみたいのだ。



そもそも、米国にとってウランを用いた発電の魅力は、


プルトニウム という核廃棄物が出来るところ だった。


(※ウラン濃縮 の際に弾丸の材料になる劣化ウラン も産出される)



すなわち、プルトニウムは核兵器に転用できるため、


軍事とエネルギーという 2 つの安全保障を一挙に解決する妙案だったわけだ。


(※ただし、これは黒鉛炉 の話であって軽水炉 は関係ない)



ところが、現代は核不拡散 を原則として、保有国 ですら削減を志向する時代である。


必然的に使い切れないほどのプルトニウムが手元に残る。


(※第一、軽水炉で産出されるプルトニウムは軍事転用が困難 ←ここ意外に重要)



そもそも、日本やフィンランド といった核保有が許されない国にとっては、


まったく無用の長物に過ぎない。


解決策と目されたプルサーマル は実用的ではないし、


高速増殖炉 に至っては実用段階ですらない。



よって、当初はエネルギー確保と軍事転用という


二重の目的で開発された原発は、既に利用価値が薄れてきている。


あるいは、その使命を終えてしまっている。



軽水炉であれ、話題のトリウム原発(=溶融塩炉 )であれ、


一定の核廃棄物が残されてしまう点は変わらない。


(※無害化に必要な年数が数万から数百に変わる 程度)



悪臭漂うゴミを安全に処理する手法が確立されていない以上、


原発は技術的に未完成、と言わざるを得ない。


すなわち、出口がない迷路なのだ。



しかし、原発は捨て去るべき技術なのだろうか。


確かに危険ではあるが、未来に残しておくべき技術であることには間違いない。


そう、技術自体を捨て去る必要はまったくないのだ。



だから、基礎的な研究は引き続き行われるべきだし、


実験炉くらいなら作っても良いだろう。



ただし、実用化する必要はないし、絶対にしてはならない。


人類が完全な制御方法を確立する日まで、原発に「充電期間」を取ってもらうのだ。

 

繰り返す このポピュリズム この衝動は まるで恋だね


(※Perfume 『ポピュリズム』 からの引用)



成熟した民主国家では、


ポピュリズムを上手に使う以外に有効な政権運営の手段はない。



民主化して久しい国家では、各個人や団体の利害が複雑に入り組んでいる。


そのため、その利害調整は極めて複雑な連立方程式のような状態になっており、


実質的に最適解を得ることは不可能に近い。



つまり、正攻法な意思決定の在り方(※議会における話し合い)では、


基本的に何も決まらないか、極めて遅々とした進行とならざるを得ない。



よって、こうした国家ではポピュリズムを最大限に活用して圧倒的な権力を握る、


言い換えると、人気取りで実質的な独裁状態を作り出す他ない。


それ以外に何らかの変化を生み出すことは極めて困難であり、


擬似的な独裁状態を目指さない限り、その政党は何もしないに等しくなる。



例えば、小泉内閣が長期に安定して一定の実績を残せたのは、


ポピュリズムを意識的かつ能動的に活用したからだ。



また、一部の地方議会で改革派知事が権力奪取に成功しつつあるが、


言うまでもなく、これもまさにポピュリズムを自覚的に活用した結果である。



無論、民主党が政権交代を成し遂げたのもポピュリズムが背景にあるが、


ポピュリズムを利用しているという自覚が足りなかったためか、


大衆を扇動するというよりは、大衆に扇動されてしまった感がある。



能動的に活用するときには鋭利な刃物となるポピュリズムも、


勢いに任せて受動的に用いると逆に大きな足枷となってしまう。


いや、政党活動を阻害するというよりは、実質的な解党行為に等しい。



所詮、国民の大多数は政策に強い関心はなく、納税をしている以上、


「政治家がちゃんと働いている」という実感を持てれば、それで満足するのである。



国民が嫌うのは、政治に「置いてけぼり」にされているような気分であり、


政治家は常に国民一人ひとりが政治の主人公であるかのように


錯覚させ続けなければならない。



言い換えれば、ポピュリズムは国民と政治家の恋愛でもある。


恋は盲目。アバタもエクボ。


恋焦がれさせれば、多少の失策は大したことではない。


人気絶頂のアイドルならば、多少の醜聞を招いたとしても、


いつの間にか「なかったこと」にされるのと同じだ。



だからこそ、政治家は精緻な政策論や情念の籠もった政治信念ではなく、


国民の気分が良くなるような、国民の満足度を高めるような宣言文句を


一心不乱に絶叫すべきなのである。政治家こそアイドルになるべきなのだ。



「国民が主役! コカインは麻薬!」


「改革なくして成長なし! 財布無くして一文無し!」

江口愛美 の実体二元論」とか、「 AKB48 の統語論」とか


いかにも意味アリ気な用語が飛び出してきたときに


「そんなの範疇(カテゴリー)錯誤だよッ!」


と突っ込んでくれる優しい女の子が側に居て欲しい。



話は脱線するけど、日本の伝統的な俳句って


カテゴリー錯誤 を芸術の領域まで昇華した言葉遊びだよね。



ここで一句。


梅雨来たり 色とりどりの 傘が咲く



そういえば、オワコン東北も梅雨が明けました。


今年の梅雨は、ほぼ夏の夕立みたいでしたね。


本州の亜熱帯化が完了すると、フィリピンみたいになるのかなー (゚Д゚`)



ここで一句。


梅雨知らず 入道雲に 羽蟻消ゆ



てか、脱衣所にトビイロケアリが大量発生して氏にたいです OTL

次々と来日する韓流タレントや K-POP アーティストの髪型を見ていて気付くのは、


意外なほど日本の流行と相違しているということだ。



特に男性のヘアスタイルは、明らかに日本の流行とは違う。


元々、平均的な顔骨格が異なるのだから、似合う髪型も違ってくるだろうし、


実際に流行も乖離しつつあるようだ。



一方、台湾や中国の芸能人を眺めてみると、


日本で数年前に流行ったようなスタイルであることが分かる。


まあ、大量の日本人スタイリストが中国本土で開業していることを考えると


特に不思議なことではないだろう。


(※台湾に関しては、単に流行を後追いしているだけかもしれない)



また、韓国の現代音楽を聴いていて感じるのは、


明らかに日本の音楽業界を追随しているわけではない、ということだ。


強いて言えば、米国音楽の影響が強いように思えるが、


南アジア系のリズム感を取り入れていたり、強烈な社会批判を込めた唄が歌われたりと、


日本の音楽業界とは似ても似つかない。



ちなみに、米国音楽の影響が強いのは、


軍事政権時代に米国へ亡命した人々の子女が少しずつ帰国し始めていることと、


(※日本でも有名な少女時代や KARA にも韓国系米国人がいる)


つい最近まで首都のド真ん中に米軍基地があったことと無関係ではないだろう。


ある意味、韓国は首都が沖縄県宜野湾市 のような国だったのだ。



そう考えると、韓国は 2 つの「宗主国 」を持っていて


ある時期までは日本の強い影響下にあったのにも関わらず、


日本の凋落と前後して米国文化を強く反映する国になってしまったようだ。



良く考えてみれば、経済的成功と裏腹な若年層の恒常的な就職難は、


米国流の経済思考が徹底された結果の一つなのかもしれない。


つまり、韓国は東アジアにおける小さなアメリカ、


あるいはアメリカ的な中規模国家を志向しつつあると言えるだろう。



結論として、韓国は日本に対する興味を急速に失いつつあるようだ。


確かに当面の間は「狩場」として注目され続けるのだろうが、


いずれは「楽しい近場の観光地」でしかなくなるのかもしれない。


だからと言って、「ドクト」を「タケシマ」と呼んでくれることはないだろうが。

疑り深い現代人諸君は、ブッダについてこんな疑問を持っていることだろう。


あらゆる欲望を乗り越えたブッダがどうして教えを広めようと思ったんだろう?



確かにもっともな疑問だ。


欲望を完全に超越した人物ならば、教えを広めたいとは思わないだろう。



実際、悟りを開いた直後は教えを広める気はなかったらしい。


悟りを開いた喜びを抱いたまま、ゆっくりと死んでしまおうと考えていた。



これは自殺願望ということではなく、完全に欲望から遠ざかってしまったので


何も飲まず喰わずで瞑想の中に没入して息絶えようとした、というわけだ。


しかし、ブッダは思い止まる。やっぱり教えを広めてあげようと思い立った。



あらゆる欲望を解脱した人間が


あえて他人のことを思いやるというのは奇妙な話ではある。


しかし、これはどちらかというと本末転倒な疑問かもしれない。



恐らくブッダが悟りを開く以前にも、完全な悟りを得た人物は存在した。


しかし、そういった人たちは他人を苦しみから救ってあげよう、


という欲望が湧かなかったので、歴史の闇に消えていってしまったわけだ。



ブッダは悟りを開いてから約2ヶ月後に、教えを広めることに決めた。


こうして現在まで語り伝えられる「仏教」が誕生したわけだ。


もし、ブッダが気まぐれを起こさなければ、仏教は成立し得なかったのだ。



個人的には、ここにブッダとそれ以外の解脱者の違いを感じる。


すなわち、自分以外の存在を思いやる気持ち、「慈悲」だ。



大胆な仮説になるが、ブッダは解脱の一歩手前で立ち止まったのかもしれない。


紙一重の差、解脱のほんの少し前で思い止まった。


ブッダを思い止まらせたのは、恐らく慈悲の心だ。


様々な欲望を乗り越えて、限りなく澄み渡った心に僅かに残された澱。


それが慈悲だったのではないだろうか。



実際、初期仏教では「慈悲の瞑想」を重要視する。


本来は物事に執着しないことを目標としているのにも関わらず、


生きとし生けるものに憐憫の情を持つことを推奨するわけだ。



この奇妙な矛盾こそが宗教者ブッダの独創性であり、


歴史の闇に消え去った者たちと異なり、人々の尊敬を集めた理由なのだと思う。



もっとも、当時仏教のせいでスポンサーが激減して


教団解体の危機を味わったヒンドゥー教の聖職者層にしてみれば、


「どこが慈悲じゃコラ!」といった心境だったのかもしれないが (゚Д゚`)喝ッ!!