それでも少女は回っている | 逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯

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A Counterpoint of the Formless Self and the Omnipotent

リベラルな志向を持つ人々というのは、概して同性愛者に温情的だ。


実際、保守的な論者が同性愛者を攻撃しようものなら、猫が熊を駆る勢いで反論し始めるだろう。


(※猫は自分の餌が取られそうになると、熊でも威嚇して追い立てる)



しかし、良識あるリベラル派の人々ですら、小児性愛者に対しては鋭い批判を浴びせる。


かくのごとく、ロリコンは常に四面楚歌であり、いつでも背水の陣である。


自殺的、という形容がよく似合う。




また、同性愛が擁護されるときは、次のような論理が持ち出される。


すなわち、同性愛とは野生の動物にも見られる自然な性的志向の一つであり、


それは(成人に対する)異性愛と等価である、と。



確かに同性愛は先天的な性的志向であるにも関わらず、


後天的に獲得される「(反社会的な)変態性欲」の一種と誤解されている節があるため、


上に述べた弁護には一定の説得力がある。



しかし、その論理が小児性愛に適用されることは少ない。


それどころか、小児性愛は原則として後天的な「異常性欲」として扱われている。



いや、たとえ小児性愛が遺伝的に自然な性的志向の一つであると判明しても、


それが異性愛と等価とみなされることは決してないだろう。


(※残念ながら、野生の動物に小児性愛が存在するかどうかは分からない)




ところで、未成年を相手にした性交渉を禁止する有力な理由として、


「未成年には自己判断能力に欠けるため」という説が挙げられることが多い。


つまり、自由意志を背景とした責任能力の有無、といった意味だろう。



ところが、近年の神経学における知見では、


人間の脳に「自己判断」なる能力は存在しないことが分かってきた


より厳密に言えば、責任を問う上で重要な「自由意志」は存在しない、という。



そうなると、自由意志による責任能力などという概念は、


人間の思い込みによる絵空事に過ぎない、ということになる。



よって、成人であっても責任能力などは有していないのだから、


未成年が責任能力を有していないが故に性交渉が禁じられているように


成人にも性交渉を行う資格が認められない、という不都合な結論に至ってしまう。



つまり、未成年に対する性交渉を禁じる理由として、責任能力の有無を問題とするのは、


(少なくとも現代社会においては)既に説得力を欠いている。



このように、小児性愛が否定的に取り扱われる理由を一つひとつ検証してみれば、


究極的には「小児性愛が(社会的に)否定されるべきものだから」


という同語反復 的、あるいは反射 的な理由付けしか残らないことに気付くだろう。


この「反射的な理由付け」を換言すれば、それは「社会による決断」に他ならない。



そう、小児性愛が否定されるのは、そのように社会が決断したからだ。


つまり、究極的には論理に還元することはできない選択や決定なのである。



当然、責任能力の有無といった問題設定は、


認知症患者が行う作話 に似た「理由の後付け」に過ぎない。





ここで、再び同性愛に焦点を当てなければならないだろう。



同性愛を肯定する論理は、それが「自然発生的な性的志向」だから、というものであった。


しかし、「自然なものであれば肯定される」という論理には、実は何の説得力もない。



例えば、自然主義的誤謬 という言葉が存在するように、


自然を観察した結果をそのまま人間社会の様相に適用する必然性はない。


それどころか、そういった考え方は危険ですらある。


(※例えば、雄クマは自分の仔を喰うことがあるが、人間の父親がして良いことではない)



既に考察してきたように、小児性愛が否定される究極の理由は、それが社会の決断だからだ。


ならば、社会が「同性愛を肯定しない」という決断を行った場合、


どんな理由があれ、同性愛は否定されるべき性的志向として扱われなければならないことになる。



実際、同性愛は、米国における一部の州で法的に禁止されているし、


イスラムを国教とする国々においても固く禁じられている。


本質はどうあれ、同性愛が禁止しても問題ない性的志向である証左と言えるだろう。


(※異性愛を禁じれば次世代を再生産できなくなるので、原理的に禁止することが出来ない)



よって、同性愛者たちを擁護したいと考えるならば、


同性愛の禁止が社会的な決断として採用されないよう、粉骨砕身して宣伝活動を行わなければならない。



もし有力な政治家や論評家が口々に同性愛に対する嫌悪を表明し続け、


それが人口に膾炙してしまったとしたら、いかに同性愛が自然な性的志向であれ、


社会に同性愛者の居場所はなくなってしまうことだろう。



事実、既に敗北してしまった小児性愛者に居場所はない。


これからどのような宣伝活動を行おうとも、一度押された烙印の痕を消し去ることは出来ないだろう。


どんな理由があれ、ロリコンは異常性欲を抱える反社会分子として生きるしかないのである。



このような社会状況の中では、たとえ「ロリコンは犯罪者ではない!」などと地位向上を求めても、


ちょうどガリレオが地動説を非難されたように、空しい繰り言にしかならないだろう。


それでも少女は回るのだろうか?