さーて、宗教と一言で申しましても、
世の中には多神教と一神教というものがございまして
神様がたくさんいると考える教えもあれば、
神様は一人しかいないという教えがあるわけです。
もちろん、本来はもっと色んな種類があるわけですけれども、
大雑把にまとめれば、上の二種類に分別できるだろうということです。
ちなみに、大乗仏教は多神教に含まれます 笑
で、更に言えば、多神教と一神教というのは、神様の数以外にも大きな違いがあるんです。
多神教は具体的な自然現象や事物に神様の姿を見ているために
「神様はいるのか」という疑問を持つ必要がございません。
一方、一神教の神様は太陽や風、山岳、時間といった具体的な存在ではなく、
日常に生きている空間の中で「奇蹟」といったかたちで立ち現れている抽象的な存在です。
しかも、地球や銀河、宇宙、世界全体を超えた存在ということになってますから、
「本当に神様っているの?」という疑問が常に付き纏うわけです。
だから、一神教の社会では、昔から「神様が存在する証拠」を探してきました。
特に、神学や哲学といった小難しい学問においては、
神様が存在することを理屈をこねくり回して証明しようとしてきました。
ただし、一神教において「神様が存在するかどうか」というのは、
単に「神様がいる」ということを証明するだけでは足りないんですね。
先程、偶然にも「神様は一人」と書きましたが、
このように一神教では、神様を人格的な存在として考えます。
つまり、人間と同じような姿をして、人間のような考え方をする存在なわけです。
人間との違いは、圧倒的に物知りで、思い通りに何でも出来るという点です。
ここで、仮に「神様が存在している」としましょう。
しかし、その神様が聖典に書かれているような人格を持った神様であると、
どうやって証明できるでしょうか。
昔から頭の良い人たちが神様の存在証明を行ってきましたが、
その証明が正しかったとしても、証明できるのは神様の存在だけ、です。
それが聖書やコーランなどに書かれている通り、
人格を持った神様である証明にはなりません。
ようするに、「神様がいるかどうか」のお話には、いくつかの段階があるわけです。
それは大きく分けて 3 つではないかと思います。
1. 神様は存在するのか
2. その神様は人格を持った存在か
3. その人格は聖典に書かれている通りなのか
まあ、一部の哲学者は非人格的な神様の存在を主張していますし、
アインシュタイン博士もそういった神様を信じていたようです。
しかし、一神教を信じる人たちは、
昔から「神様がいるかどうか」には強い関心があるにも関わらず、
神様がいるとして、それが「自分たちが信じている通りの神様なのか」
という重要な点にほとんど関心を払ってきていないのです。
というよりも、それを問題にした途端に異端者扱いされたり、破門されたり、
最悪の場合はSATSUGAIされたりしてしまうので、
「君子危うきに近付かず」ということなのか、不問に付されてきたところがあります。
とはいえ、一介の物好きとして考察してみたのですが、
たとえ神様が存在していたとして、
その神様が何事にも無関心を貫く横着な性格だったとしたら、
そんな神様を信じるなんて何だかバカバカしいですよね?
だって、信じたところで何もしてくれないわけですから。
結局、神様が人格的な存在で、しかも人類に強い関心を持ってくれている
という前提がなければ、一神教は信仰が成り立たないんですね。
まあ、好きな人と付き合うにしても、
相手に自分にまったく気がない状態で関係を続けられるか、
といったら難しいところですもんねえ。