前記事において 以前病院にてふぃをついて体験した サット・チット・アーナンダ 状態の意識体験を挙げた
諸事情からこの系統の話はしばらくやめておこうと思っていたのだが 最近 youtube にて数々のスピ系の動画をみていると
ほんとこいつわかってんの~?🤔 という動画に出くわすことばかりだ
厳密にいえば こいつ瞑想家として 体験はしているのかもしれないが それにしても あまりにも説明が下手で的を得ていないというか・・・
全くナンセンスな説明の仕方をしていたりとか・・・
いゃね 自分はこの種のことをひけらかしたり もちろん!自慢したりするつもりは一切無い そもそもこの話=悟り系の話はしたくない
そんな話をするくらいなら まだ神通の話のほうがよっぽど面白い!🤭 おっと面白いなどといっちゃいけないか・・・
しかしね youtube 動画でこの種の領域に触れている動画で 人に失望をもたらす方向へ舵をきっている動画をみていると頭にくるわけだ
なぜなら!そんなふうに導くこと自体が サット・チット・アーナンダ 状態(※以下は S・T・A とする)をはき違えていないか?と思えてくるわけだ
まず最初に ある人の S・T・A 体験談を聞いた結果 貴方は 悲観的になった もしくは自分には到底無理だとか 縁遠いものに思えてきた また 自分には能力がない とか
そのようにしか感じないなら 断じていうが それは その動画の主は 真のS・T・A 状態を体験していない!といえる
ハッキリいわせてもらう 馬鹿に影響を受けるべからず!
ここでまず S・T・A が釈迦の悟りと同等か? あるいは『 解脱 』 という言葉と同等か? という議論は別だ 自分はまだそれに答えれるだけの体験はない
ただ S・T・A 状態だけは間違いなく体験した それだけは自信をもって明瞭にいえる その点において疑問は一かけらすらない
その 一かけらすらない というのが証明といえば証明になる
まぁそんなこんなで サット・チット・アーナンダ をより多くの人に 問答無用で! 絶対的当然の理として なるほど!と納得させ
ナンセンスな解説により 自信を無くす人をより減らすにはどうすればいいか? 即座に思いついたため
この『 サット・チット・アーナンダ の核心 』をあげることにした
今回はちょっとばかり 我ながら出来の良い記事になるだろう な~んてね😂
サット・チット・アーナンダ これほど簡単で単純な人の存在実態は他に一切無い 誰もが言葉と言葉の間に体験していて かつ 夜の睡眠中 "深い眠り" の中では必ず体験しているにも関わらず これを一旦人に説明しだすと! えらいこっちゃえらいこちゃ!!!
議論の混沌の中に埋没していく
これには ある種カラクリがある その最も顕著な言われが #ラマナマハルシ や #ニサルガダッタマハラジ などのマスター達がいっている
『 貴方はもうすでにそれを 今!体験している 』 『 いつもその中にある 』 『 その気になればいつでも体験可能 』
という文言だ 事実 自分も全くその通りだと思う つまり認識の問題であり 認識という範囲でも 『 判別 』の問題だ
ここで注意しないといけないのが
「なぁ~んだ じゃ言葉のアヤみたいなもので一瞬気をぬいたような感覚がそれを意味しているのか?」
といえば 決してそうではないのだ
もちろん 自分も じゃ今即座に その体験状態を再現してみろ!と言われてもできるものではない やはりまだ深い瞑想が必要だ
それを平常意識で即座に再体験できる頃には 自分はもう 人間辞めるかもしれない
ただ 自分がいえることは これを体験したと "実感" できる者は、決して "至福" の説明を怠ったりはしないだろう というまでだ
ここが! こここそが! 重要でかつ今回の神髄だ これを体験判別している者は必ずこの 『 気持ちE~ 』 の感覚とその真意を前向きに解説しているはずであり そうあるべきなのだ この記事全てを読むとそれはわかる
この "至福"の説明を怠る者は おそらくだが それはサット・チット・アーナンダ 状態には至っていない可能性が垣間見えてしまう
そういうのを 瞑想ヨガでは 無想三昧という
この 味のない 無想三昧に一旦陥ると 何年間もの間それを真に真に受けて それが悟りだとしてなかなかその状態から這い出ることができないと言われている
なぜなら 瞑想などの修行プロセスに こってり!と癖がついてしまうからだ こういうとまた知らない人は恐れを抱くだろうから これさえもあまり真に受けないことをお勧めする 要は 瞑想世界は徹底した楽観論が必要になる
この悟り状態(無想三昧)に陥った者がいう概念は、すこぶる簡単で 全て 「何も無い」 を力説していくことになる
つまり 悟り世界を無機的な おシラケけムードに帰結させていくのだ わかるだろうか? それはそれはもう 『 無 』のオンパレードになる
これをやっている者の言うことを鵜吞みにしたら 永遠にサット・チット・アーナンダ 意識を実感 (判別) することは無い!
この無機的おシラけムードとは 当の本人にとっては 面白くも苦しくもない 自分は「無」そのものだ という態度それそのものであるため
冷めきった大人の感覚からすれば それが最終ゴールだろうと より強く信念の部分で断定してしまうのである
この領域をさ迷っている者の 悟りの内容は その人がいう言葉や文章を聞いていれば 自分は一発でわかる あ~ハマったな っとね
この領域とて 簡単に至ることではないため 種々の経験などから 実相世界の分析は 理に長けていて 聞くものを納得させるものではある
それだけに 余計わけが悪いとなるのだ おわかりだろうか?
では そのような無想三昧を避け ごくごく単純にサット・チット・アーナンダ 意識を実感するにはどうすればいいか? といえば
その「鍵」が 「 至福 」 という概念に隠されている
さて 存在 意識 と違い この 至福 とは何を意味しているだろうか? (※こっからがいよいよ核心だ)
このサット・チット・アーナンダ の説明でも 「存在している」 「意識がある」 というこの2者をよくよく突き詰めて考えてみよう
つまるところこの2者は 生命としての悟り云々かんぬんの中でも 無機的な存在論 哲学的存在論のただ単なる"理屈"にすぎない
ところが "至福" という概念は ある種全く違うというのがお分かりだろうか? そう! 全く種類の違う 「感」に関するものだ
そろそろ 賢明な人なら おわかりかな?
サット・チット・アーナンダ と簡単にはいうものの よくよく分析してみると そこにはまだ若干の胆略化が含まれている
それこそが この "至福" という状態だ 至福 というからには 即座にそこには気分的なものが前提としてうっすらと含まれていることがわかるだろう
そういった気分的なものという概念が含まれている となると そこには、精気が関連してくる となる ということは?
そう それはまさに『 生命 』としての 超基本的な #実態観 がそれを成しているのであり 生命として究極の『 至福 』なのだということだ
さらに別な言葉でいえば それは喜びそれそのものであり まさにそれは『 歓喜 』なのだ
「存在」「意識」などという概念は それを特殊状態として 後から哲学的に付け足している 論評家のための概念にすぎない
もちろん! そのとおりで 存在 意識 至福 な・の・だ・が! これらのうちで 最も!重要な点は 何がために『 至福 』といっているのか? という点にある
考えてみよう もし 至福なくして 存在 意識 のみが 悟り世界の究極のゴールだったとしたなら・・・
あんたは こんなもの目指しますか? くだらね~
例えば 機械が動いている といったときに
その機械がワンパターンのただ単純な反応を繰り返しているという事象に 人は永遠無死の遥かな悠久のロマンに誘う何かを感じるだろうか?
あるわけないわな (もちろん そんなことに快感を覚える変態はいるかもしれないが、そのジャンルば別な事だ・・・)
つまり 存在して "いる" 意識して "いる" という状態のみでは それはただ単なる 物理現象とさして変わりないとなる
(^^;) 考えてもミソ そんな くだらないもの というか まるで物理現象になるために あんたは 悟りを目指したのか? あるいは瞑想したのか?ということだ
ねぇ~( ^ω^)・・・ もしスピに関心大な人なら たくさんの本を読み そしてヨガやら瞑想やらやりまくり その目指した矢先にあるものが
ただ単なる 理屈 機械反応? おっかしいわな~ おわかりか?
結果からいえば 『 至福 』 が伴わないそれなど もはや何の意味もないわけで 最初からスピリチャルや瞑想などやるべきじゃなく 科学者や技術者にでもなればいいとなるのだ おわかりだろうか? 目指している方向=領域が全く違うわけで いうなれば 無想三昧とは 脱線であり 泥沼といえるだろう
では 有想三昧 の最終ゴールといえる サット・チット・アーナンダ になるために何が必要なのか?
それこそが 何がための生命なのか? という究極の問でもあり くさい言葉でいうなら まさにそれこそが「愛」ということになる
つまり サット・チット・アーナンダ があえて一つのゴールだとすると
それを見極めるプロセスには 必ず含まれる語句が 「私とは何か?」 である つまりこの点から紐解いていかないとへんな迷い道に陥ることになる
それに必要なものこそが! それこそが! 豊かな感情経験 #感情空間 (※ロボマインドプロジェクト 田方氏の単語をパクリ) なのだ
つまり 当然のこととして 貴方が誰にも知ることができない 貴方の内なるロマンの正体 何にロマンを感じるのか? 誰にも知ることはできない そういった内面の"想い"が何によって引き起こされたのか? などなど
瞑想の大前提となる"想い" "情緒" "ムード" こういったもの抜きに 理系脳だけで瞑想や 悟りを追求してもでてくる答えは ただ単なる理屈でおわる
というか あいも変わらず それで導きだされる 答えは 『私は存在しない』 『全ては無である』 それだけだろうね
一言いい? 存在してるじゃん?
しかし この 無想三昧の帰結に落ちている間は まさに そう! まさしく 貴方は存在していないのだ おわかりだろうか? 当たり前の結果だ
それを"貴方"が求めたからその答えがでた それだけのことだ
次のように考えてみるとわかりやすい 宇宙の法則でもないが・・・・・
世界を金(経済)に求める者 金(経済)だけが実態という世界に収束埋没していく
世界を理論に求める者 理論だけが実態という世界に収束埋没していく
世界を愛だけに求める者 愛だけが実態という世界に収束埋没していく
世界を宗教に求める者 宗教だけが実態という世界に収束埋没していく
世界を欲に求める者 欲だけが実態という世界に収束埋没していく
世界を"無"に求める者 無だけが実態という世界に収束埋没していく おぃ 貴方はダークマターか?🤣
世界を意識に求める者 全ての実相が明らかになり やがて サット・チット・アーナンダ に至る
ゆえに どうしても サット・チット・アーナンダ が程遠いと感じる人は ポジティブもネガティブも益々もって意気盛んに
自分を展開する必要があるのだ
そう 自分の内部に存在する 実態の無い自信に向かって! 自分をとことん展開すべし
そして もし スピリチャルなど自分は無縁だと思うような人でも いずれ自分は 悟りを得る サットチットアーナンダ状態を体験するぞ!
と宣言すべきである そんな難しいことではないからだ なぜなら 無意識では 今でもそれは共存しているし それのみの体験は夜寝ている時に必ずしているのだから!
ただ宣言することは絶対必要になる そうすればやがてその時はおとづれる!
複雑な事が大好きな輩が 自分の専売特許といわんばかりに それに制限をつけ さも難しいことであるかのようにいうから 事がややこしくなるだけだ
つまり サットチットアーナンダ状態を体験する とは 認識論の範囲 の 『 判別論 』にある おわかりかな?
ハッキリいおう 宗教もスピも瞑想も全く興味もない あるサッカー少年がいたとする そのサッカー少年は サッカーを通して先輩後輩の複雑な人間関係を嫌という程味わった そしてある大会で活躍して いがみ合っていた仲の悪い先輩と真の友情が芽生えた
その後も会社員として せっせと働き様々な人間模様に翻弄されたり 人生の吸いも甘いもいろいろ味わいつくしてきた
しかし その青年は 宗教もスピも瞑想も全く興味がないが 健善な精神でそれら人生の味を いろいろ体験してきたとする
あるとき 会社の休憩時間にうたた寝をして サットチットアーナンダ状態を体験する
いゃ 体験するというからおかしなことになる 体験ではなくて 判別だ 判別認識できるときがくる となる
( なぜなら このS・T・A 状態とは それになりきっているときは確認することができないからだ
そこから覚める瞬間 あるいはそれに至る瞬間に そのうっすらとした面影だけを持ち帰るからわかるのだ
体験したと判別できる S・T・A 状態時には思考は一切残っていない )
これ充分ありえる話であり 何も悲観することは無い やがてその青年は そのS・T・A 体験により 嫌と言ってもスピリチャル的な事に関心は増していくだろう というか自然にそうなる
なぜなら もとからそうだったからだ ただ自分の感情的体験に スピリチャルという単語をつかわなかっただけの話だ
今記事を書いていて そう! さらに付け足したくなるのが この体験を判別できた者は 必ず 次の言葉がいいたくなる
『 もともとそうだった 』 『 本来の自分 』 これだ! この『 もともどそうだった自分の本体 』
これらの文句をいわない悟り体験者は まず怪しいとさえいえるかもしれない それくらい 『 あたりまえ 』の事であり自然なことだ
この例え話の サッカー少年~会社員は サットチットアーナンダ状態を体験した ということはまぎれもなく それは長年ヨガや瞑想 また禅や密教などに没頭してもその状態を得ることはなく やがて悪徳宗教にハマる輩が及びもつかない崇高な状態に至ったのであり
今度はやがて さらにその上を目指す時節の到来を意味している
悟りを目指し 仏教団体に入りあれやこれやともだえるうちに 理論脳がでかくなり やがては派閥争いや地位や名誉というくだらない
麻薬が注入された利権馬鹿とは 絶対的に違い もはや その健善で顕然なサッカー少年~うたた寝会社員は道を間違う事はないのだ
逆に利権馬鹿には それは相当長い 輪廻転生が待ち受けている まさに地獄の大魔王が管理する悟り世界で右往左往する運命にある その神髄なかなかわからないだろうな~🤣
もし 貴方がスピに多少でも関心あるなら 悟りの目的で迷いが生じるなら 考えろ 『 至福 』とは何かを?
存在 意識 こんなものは あたりまえだ これはただ言葉の論理上の哲学的解説のための単語でしかない
人間が知覚できるものは全て意識の中で起こっている事象にすぎない でも小難しいことに囚われてはいけない 厳然とした自分の意識は自分こそが最もよく知っている 自分は自分の意識の管理者であり科学者なのだ そんなことはあたりまえ
また 存在という概念も それに同じだ 存在していなかったら 意識することはできないのだから こんなことはあえて目を向けるべきポイントでもなんでもない
鍵はそんな言葉にあるのではない! 至福とは何か?にこそある 貴方だけにあるロマンとは何か? 貴方の個性の本体とは何か?
それに向かうべきである
多少でも瞑想に関心のある人は 全ての!今まで聞いた全ての瞑想法を投げ捨て 騙されたと思って 次に示す観想をやってみるといい
呼吸法によりある程度集中したら 貴方の思考や意志ではなく 貴方の身体または全細胞を完全自由に解き放つようになるがままに任せてみるのがいいだろう 思考は動いていてもいいから あまりそれを重視せず 自分の身体細胞全てが 自分が飼っている水槽の中の魚を解き放つように自由にさせるように 際限なく"楽"になるようにイメージしていく 思考は動いていてもほったらかしで 後ろにでも置いておくつもりでいるといい それよりも貴方の「体感態=体感している身体実感」を楽な方へ楽な方へ誘導して解き放していくのだ
やがて思考は消えていくだろう
アストラル世界に移行できたらラッキーだ
そのまえに貴方は「私は自分の本体に戻ることを体験認識する あるいはサットチットアーナンダ状態を実感判別できるようになる!」と宣言しておくとを忘れないように 何に向かって宣言するのか? もちろん自分に向かってだ
この瞑想においては 最初のリラックス集中の時”以外”は 神や霊 宗教 哲学 マントラ ノウハウ など一切考える必要無し
そうなれば後は自然と誘導されていく 瞑想においてはこのやり方が最も早い
瞑想なんてつまるところ 99%の集中とリラックス そして最後の1%において完全自然放置が重要となる
もっとも有効なのは 明晰夢の最中にやるのが最もいいかもしれない ただその場合寝てしまう可能性が高い
しかし 瞑想に拘る必要は無い ただトランス意識状態のときが前提となることだけは 今までの云われと同じだ
https://twitter.com/hermitregion
※あくまでこれらは サットチットアーナンダ状態追及の話をしたのであり 実社会でなんでもかんでも自分の気分が赴くまま勝手極まりない事をやれという話ではないのであしからず どこまでも内面のスピリチャル的な領域の話だ それがわからない人はこの記事わするべきだ