昔から仏教でいうところの理想的最終形態とは
「 心を無にする 」 とか 「 頭を空っぽにする 」
とかよく言われるのは 誰もが知るところだ
当然これは 禅でも最初のとっかかりはそのように胆略化して言われることは多いだろう
やがてもう少し 仏教においての見識が増してくると 「 無 」 ではなく 「 空 」 という解説がでてくる
では 「 空 」 とは何か? といえばそれは 龍樹菩薩 の 空の理論 で説明されている
めんどくさいので そのいわんとしている主旨は 般若心境 の訳でもみて イメージしてもらえば だいたいのイメージはつかめるだろう
つまりこの段階では 何もない空間も含め それは 空 こそが宇宙の 究極的実態 となる
しかし この段階で、初めて仏教の 存在論 に触れたような人は
「 ちょっと待った!じゃ最初話していた 無 はどうなったのか? 」 と・・・
そう! まさしく 最初は 「 心を無にして・・・ 」 といっていた その 「 無 」 についての説明は 空 がでてくると同時に何処へやらいってしまう
これは如何に?
また 最近増えてきた 瞑想を愛好する人は 自分の瞑想体験を語る際に
単純にいって 「 無になった 」 「自我は消えた」 とかいっている瞬間がある
これは如何に?
この初心者向けの動画の中でも 中田氏は 仏教を 「 無を思考している 」 と単純におかしな言い回しをしている もちろんこれはそんな深い意味はなく 単純な一般向けの解説なので この段階では問題はない
また この動画に限らず 最近は 瞑想といえば ヴィパッサナー瞑想 と 止観瞑想 という単語のみが瞑想であるかのような風潮があるが こんな見解は ごくごく最近言われていることにすぎない 個人的には まーた我々日本人が大好きなベリースペシャルワンパターンがはじまったか? とおもうまでで全く馬鹿げた風潮だとさえ感じる
自分などは ヴィパッサナー瞑想なる手法は全く通用しない おそらくこの手法は通用する人とそうでない人がいるだろう
そんな手法より 思考信号が螺旋上にはがれ落ちていくのを眺めきるほうがはるかに早いとおもうまでだ
余談はおいておいて この動画をみたとき 自分は過去の瞑想体験により めくるめく閃きの連続がおき
次の絶対的確信を言語化することに至った それは
「 無 」という単語を使った言葉を発するとき それは存在する
つまり 何も無いはずの 「 無 」 が 「 在る 」 に至るということだ
これは 「 無 」 が存在することを前提に発している言葉だ
つまり ここで捉えている 「 無 」 は 「 無 」ではなく それが「 空 」の一つでしかないということになる
厳密な意味では そんなことは あり得るはずもないことはおわかりだろうか?
ここで 瞑想の 無想三昧 という単語がわかる人 もしくは 瞑想により我を忘れ三昧状態を経験し 後にパっと我に返った経験がある人も 自分は 無を経験した! というかもしれない
しかし それは 全くの間違いで それは 三昧による自我意識の記憶の欠如であり 厳然と存在していて 決して無ではない
結論からいってしまえば この世もあの世も全て含め 無を経験したということなどありえないのである
この1点がわかるかどうかが瞑想の深度が問われる部分だ
無などという 状態は 全次元宇宙の永遠の過去から永遠の未来に至るまで そんなものが 「 在る 」 ことは無いのだ
「 在る 」ことが全くないものをどうやって体験するというのだろうか? 体験すると同時にそれは 「 在る 」 「 在った 」事になるのだ
つまり 無なるものは ありようがなく 意識でとらえることが絶対ありえないからこそ 無 といわれるのだ
もちろん 科学がいうところのそれも 空の空間自体をいっているのであり それは 無 ではない どれだけ厳密に現したとしても それは意識の中の定義であり 無では決してありえない
それは 意識の中の幻想(空の1形態)にすぎない
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