さて前回の記事 「 創造的生命自然主義 」 から早半年が経ってしまった

 

実はあれからすぐアメブロを再開するつもりでいたが どう切り出すべきか悩んでいるうちに 発信はほとんど適当にTwitterで済ませ自分の目的としてはバラバラにあてもなくやるようになり いってしまえば堕落していた まぁそれはこれからこのアメブロにUPしていく 自分にとって人生第2の大イベントとなった 実家が火事で完全に消失してしまうという出来事とそのプロセス そしてその後の展開をどのように描けばいいのか? 今一まとまらなかったし気も乗らなかった


しかし ここにきてTwitterに飽き飽きしてきたというのと やっとブログを再開する気分がでてきて書き始めるに至った


それは あまりもう「火事」について拘らず もっと日常のラフな出来事や社会風刺など書きながら その流れで 自分が体験した火事についての考察にも目を向けようと思った次第だ
 

現在 昔(2016~2017)当時のブログ構成の勘所(もちろん当時もめちゃくちゃだが)はさらに感が鈍っていて 綺麗にまとまってから再開しようと考えているといつまで経ってもはじめることはできない
これからしばらくの間UPしていくj-currentブログの中心話題は自分が体験した「火事」だ しかし言い現わしたいことは火事にあらず
火事で学んで自分の信念体系に芽生えた概念こそ その訴えたい主旨となる


自分のこのアメブロでの心意気、信念体系 というものは、以前の 2017-10-06 「 ジニャーニの智慧 」 から今において明らかに1段変化があった つまり2017年当時の自分と今の自分は根本的に違う


2017後期における自分はでかい不幸=火事というものを経験していなく いつもやる気満々で自分はどんなことでもできうるという錯覚の自信に満ち溢れていて 着々とネットショップビジネスなども展開していこうと準備していて楽天と契約したまさにその時 気が付くと自分は火の中にいたということだ

※自分の火事で焼けた家は、お土産屋ということもあり 自分の家の2階には今では珍しい 昭和初期の全国のとっておきの民芸品が残っていた 自分はそれを希少価値がでてきた日本各地の民芸品という名目で売ろうと考えていてやっと準備が整った矢先だった


次回は いよいよその火事についての生々しい経緯と体験を書こうとおもうが 今日は 内面においての親との決別 と ごくごく単純なスピリチャルにおいての新たな発見 を知るし それから 火事の前置きというわけではないが 「Rin」という女性について書こうとおもう
 

まず 内面においての親との決別とは何かといえば 本日昼過ぎに 大学病院の玄関先で 準認知症の親父と本気で大ゲンカして警備員に止められるまでに至ってしまったことが起きた


まずここで 最初に言わなければいけないことは 親父は準認知症といっても その喧嘩したポイントにおいては認知症は関係がないということと 後 喧嘩はしょっちゅうあるが ここまで酷い事を親に向けて言ったのは初めてで もうどうにもできず気がついたら全てを出していたという点だ
 

今日 午前中9時頃大学病院で親父を下ろし親父は喉の治療のためその大学附属病院にいき 自分は県内の済生会病院まで甲状腺機能亢進症の診察にいった


ところが 今日に限りスマフォを忘れたため 自分の病院が予定より長くかかることを 公衆電話でつたえた
その内容は スマフォを忘れたため気長に待ってくれ 親父を迎えに行ける時間が、12:30分~おそくて13時になるということを伝えたのである


そして 案の定 親父を迎えにいった到着時刻は、13:10になってしまった 自分としてはマックスの待ち時間を超える予想がついたわけだから また”公衆電話”で遅くなる旨を伝えるべきかどうか迷ったが 薬をもらった病院外部の調剤薬局には公衆電話はなかったため
「まぁいいか それぐらいはおくれても今回は多めにみるだろう」 という腹で急いで向かったのだ


ちなみ 自分は一昨日 親父に
「これからは せっかちなその態度は頼むから止めてくれ! そのせっかちな親父の要求には一切したがわないぞ!」 ということで徹底して言って聞かせたばかりだったから 今回ぐらいは黙っているだろうと思ったわけだ


ところが!どすこい! いざ親父が待つ大学病院の玄関について 案の定!親父は怒り心頭を通り超して 自分が親父を確認し

「ついたよ」という声をかけると それを無視して 「おまえ今頃何しにきた? どれだけ待っていたとおもう?」 ときたもんだ

すかさず自分も「何をいってるの?」「まーたはじまった!」と 返して 訴えを聞いてみると チャッカリ時間を間違えて 自分が12:00~12:30の間に来るものだと思いこんでいたのだ
 よって自分は それが間違いだということを指摘すると 「バカ!じゃお前の言うとおりだとしても10分遅れて電話しないとは何事だ!」とはじめったわけだ わかるだろうか?
ここで自分は怒り心頭に達した なぜなら親父は 自分が遅くても12:30には来るつもりでいたのに30分たっても来ないために今のような状態に至ったわけだ ところが それが自分の間違いだとわかると今度は わずか10分遅れたことへの批判に”切り替えた”のだ


つまり 親父の怒りのポイントが自分の聞き違いにあった腹いせを今度は わずか10分遅れたことへの言いがかりに切り替えたわけだ そして自分は もちろんそりゃ10分でも遅れたことには間違いないけど スマフォをもっていなかったというのと 公衆電話もなかった話を叩きつけたが もう聞く耳をもたん!という態度のため さらに怒りは爆発し 今までさすがにここまでいったことがない単語を連発してしまった

 それはもう到底 親に向かって吐く言葉でない怒涛を浴びせ そのまま親父を乗せずに帰ってしまった それは親父は親戚を呼んでいたから それでいいのだが ほんとやりきれない気持ちでいっぱいだった


「おまえのその態度がどれだけ いままで御袋や自分を苦しめてきたか? わかってるのか この馬鹿が! ふざけんなボケ!」 何回も怒涛を浴びせていた
多少 親父はビックリしていたようだった あまりにでかい声だったため やがて 警備員がきて止められた
もう自分の胸の内は 先祖への尊崇の念もへったくれも無く ただただ怒りの権化と化していた またそうなっていいと思った

 

心の本質、心の理を100%排除するものには それがどんなものであろうと立ち向かってあたりまえだ


なぜなら それは明らかにいい歳こいた息子を小学生を適当に騙す程度の智恵で強制的に納得いかせようという態度だからだ わかるだろうか? 普通なら親だからまぁ仕方ねーや だが時と場合でそれは異なる
 自分は後悔など全くしていない なぜなら これはまたこの件に関する怒りだけではないからだ 親父の身勝手な家族への完璧主義的期待のため 事実今まで小さい頃から御袋は過剰なまでの苦労をし また自分も非常に大きな”余計”な憂鬱をどれだけ抱えたことか そしてとくに 最近の準認知症気味になってからはそれは余計激しさを増しているにも関わらず 一向に自分などの忠告や気遣いは全て100%無視だ

 普通ならもう親子の縁を切りたくなるレベルにきているのだ もちろんもう80を超える認知症気味の親にそんなことはしないが 認知症など 関係ない範囲で 人のいうことをカスに欠いている点がどうしても許せないし決して言って後悔はしていない


おかがでスッキリしたというものだ しかし こんなことをやったとて これで準認知症が治るわけではなく これからもやりきれない事はチョクチョクあるだろう ただ今日は、現実的側面だけでなく そういった自分の内面での対応が一皮向けたと思ったということだ
 

 

 そのせいもあったのか 今日は夕方久しぶりに 早歩きをした そして早歩きをしながら 最近凝っている 手の振り付けと精神統一を連動させる試みを実感しながら 散歩した


それはとても 気持ちのいいものだった 途中生えている 草や木などと途中同調しながら 手の円運動に集中していろいろな試みをした もちろんその振り付けは 初めてではなく 今まで何度もやっている それは自然にでてくるもので 意味は何もない

ただただ体からにじみでる自然の”形”や”流れ”に身を任せるのである


そしてやっているうちに 今日初めてなんともいえないイメージが沸き起こり そのイメージと手の動きと環境が一体化してきたのを感じたた
それはもう 言葉で言い現わせる限度を超えている なんというのか自然の成り立ちと自分の意識が同化して不動のものとなり自立して動きはじめるとでもいおうか なんとも心地よく 絶対的な 『 イメージ 』 と 『 動 』をほとんど自動で演舞しているのだ


イメージが独りでに動きはじめ 手もそれと連動して 意識は静寂でかつ不動となっていくのだ


もうこれ以上は表現することは不可能だ これがまた気持ちよかった これが意味するもの あるいは何の役にたつかはわからないしかし 確かな絶対的な”何か”の手ごたえをハッキリ感じた とにかく 手ごたえがあり心地良いため また明日もやろうと思っている
感じているのは 円の動きの中の無限という不動であり動 ほんとこれぐらいしかいう方法が見つからない
これからますます あの状態を発展させれば さらなる何かをつかみとることができるかもしれない そんな期待が沸いてきた

 

この記事は これからUPしていくテーマ「火事」についての 出だしのジョギングみたいなもので この記事はこの日のただ単なる日記みたいなものだが 次回の「 Rinという女性 」は、自分の内面の本質において この「火事」と大いに関連してくるのだ
正直 「火事によって自分は何を学んだか?」 の明瞭なダイレクトな答えはでていない しかし自分の内面において それは完全なる実在級の実態であり 現実的にみても瞑想世界の神髄においても 完全に明瞭に一致するイベントが火事なのである