※ 前ブログで 現代日本人の世相読解力 +++ 新生日本の息吹 +++ へ続く と書いておいて申し訳ありませんが、次々と直観が押し寄せるので前回の続きは後にまわすこととします
◯ 東京のとある街で 非常に目立った政治運動をやっているにも関わらず 巨体で堂々と のしのしとまん丸の柔らかなオーラを放って歩いている人をみることがある チャンネル桜の水嶋社長だ
2度会話したことがあるが この人からは 柔らかく人を包みこむ大きなまん丸のオーラが放たれている。今まで、誰よりも比較にならないほど 日本の覚醒に尽力してきた人といえるであろう 恐らく究極の葛藤を抱えながら日夜闘っておられる姿に敬意を評したい まず社長の命懸けのご尽力がなければそもそも新護国の潮流がおこらなかったわけで 途中いろいろあっても 複雑多岐なプロセスがあったとて 最後は日本国民であるならば社長に感謝するべきである
世界を真に動かす最強の会議、ビルダーバーグ会議
(※護国運動する人をみてすぐ危険な右翼などと評する人にいっておく 自分は街で社長に会った時 社長は、政治の話など何一切されなかった それどころか この自分にとって最も適切な言葉をかけてくれて深々と礼をしたことを述べておく 護国運動家をすぐ右翼右翼という洗脳されきった人は未だに多い 目を覚ますべきである)
◯ かつて 個人、団体問わず 過去 誰もが部落解放同盟と聞くやいなや 恐れてタブーにしていたことはいい歳した大人なら誰でも覚えているだろう 以前チャンネル桜でみたが その部落解放同盟に堂々と乗り込んでいって正論をぶちまけて ついで国会でも、一歩も怯むことなく反日議員を駆逐したのが三宅博さんである 何としてもまた国会に返り咲いてほしいものである
政治家として志すこと、NHK解体・汚職教科書の排除・拉致被害者の奪還・そして国家の自立
◯ 次に、かつて金権政治の代表格であった田中角栄 その政敵であった石原さんが最近綴った本「天才」の内容のあらましだ
金スマ 石原慎太郎×田中角栄
余談ではあるが 東京都知事いゃ日本を牽引してきた大きな一角の雄に 背景に赤い服のギャルを数十人も並べたて迎えるとは甚だ無礼千万な態度である TBSも朝日とレベルがあまり変わってないといえるだろう 全く怒りに体が震えるほどむかっ腹がたつ話である 別に自分は石原さんを過度に引きてるためにいっているのではない この番組の構成を考えたアホに怒りがこみ上げる次第だ! このような感覚が非日本人的といえる ボケが!ふざけるな!(おっと感情に押されてはいけない ストップ!)
こうやってみると 誰しも日本人として最も大切な部分を守ろうとして争うということがわかるものだ、なぜこんなことになるのか? 本来ならこれら誰もが創造主義に基づき 今頃宇宙的視野でものを見て感じて自分の創造活動と精神活動また娯楽を勤しむ運命にあるのに、我々日本人としての主義心情が欧米の金持ち連中に操作され闘争へと変換されてしまうことが有り有りとわかるというものである それがわかったなら一見 今の企業や団体にも どこにその系譜があるか要チェックが必用である しかしまた我々も生活をする以上どっかでこれらに関わっているのである よって多少のことは多目にみないといけないだろう ただこれからは、物事の価値を金だけでみている輩にはそれが友達だろうが会社だろうが、厳しい視線で接していくべきである 反日はもっての外というのは言うに及ばないことだ、またこれからは政治組織学 政治力学構造にまだまだ神経質になるべきである
移民に関して侍JPさんのブログ
党により綺麗に賛否が分かれている ・・・これは2重に問題がある 特区法が問題だが、その前に、党でもこんなことは意見が別れて当然なのだが なぜにこれほど党により白黒が別れるのか? 機械じゃないんだから こういうところからも 政党政治の終焉を意味している もう我々はそろそろ”金”というものを破棄して 名誉や美徳を価値とする創造主義社会に切り替えていくのが理想的である 少なくてもその思想基盤を創らないといけないといえるだろう
また山本太郎に関しては、以前のご皇室への無礼、をかえりみるにこれだけで信用する気にはなれない
現実は、人によりこれほど違っているのである 我々はそろそろ 個人の遺伝子レベルからの"純"な表現や欲求を実現させる 社会像を考える必用に迫られているのではないだろうか?
少なくても!少なくても その思想的基盤を考える必用がある 古びた昔のヨーロッパの貴族やゴロツキが創った金に収束していく価値流通システムになんでこだわらなきゃいけないのか?
(例えば ベンサムはタバコを吸った快楽度は・・・で 食事をした快楽度は・・・)こんなものを数値化して モデル化し社会学を考えていたらしい もちろんそれから歴史を経て経済学やそれに基づいた統治学がでてくるわけだが まぁ~ 我々日本人のそれとは 全然違うでしょ 全然! まさに空想的資本主義といえるのではないだろうか? 現実はそれが力で実態化されてきたといえると思われる
話は変わり 上に示す記事とは視点が違うが 今日は主にネットで見かける、スピリチュアルに熱をあげている人、自己啓発に躍起になっている人 密かにスピリチュアルや自己啓発を信望している人に向かって記事を書くことにした 新時代の保守の潮流を多少でも実感できる人で 東洋の瞑想的世界の追求を怠らない人は、人一倍複雑な思いにかられるだろう
もちろん自分もそのうちの一人であるから その種の葛藤がよくわかる でもまだ現在はこの種の葛藤も昔に比べたら幾分マシである。
(余談)昔自分は 街宣右翼の信奉者に日本人としての瞑想的世界観をわからせようと躍起になっていたときがあるが、当然空振りに終わったことは言うまでもなしである
インド哲学;ウパニシャッドまたはヴェーダでいわれるところの現象宇宙観を多少でも認識できるものにとって どうしても国の垣根を強くしようとする性質が強まる護国運動またはその思想的背景は 一筋縄でいくものではない もちろんそれは政教分離 あるいは 物事の区別をしっかりやったとて! 心の内奥の思想的認識にあっては、そんな簡単にしっくりくるものではないはずである。
特に 政治政策ではなく その背景にある思想部分での話だ よって 自分は 人気を誇る 「引き寄せの法則」に躍起になる現代人が そう簡単に護国的国家観をしっかり考えるということが如何に難解であるかよくよくわかるものである
なぜかといえば 引き寄せの法則 にみられる思想背景には ヴェーダやウパニシャッドにみられるインド哲学があるし そうこう言う前に 近年のヨガブームは尚いっそうその思考を強めること間違いないからである ある意味これは 反日左翼や新自由主義者よりも手強い相手であり 自分はここを考慮せずして真の護国運動などありえないと思うのである
護国運動家にとって、もう今では日本人の大多数がその知識の断片をおぼろげながら知ることとなったインド哲学が、そのあたりのちょっとした新興宗教レベルの狭い範囲の1ジャンルで割り切れる趣向の1つなら何も気にすることはないのである。 しかし誰もが知っている仏教、いゃキリスト教さえ このインド哲学の影響を受けてできたものであり そもそもインド哲学とは 精神と物質それそのものを厳密に認識していく学問であり現象学である 西洋の哲学史では かろうじて1つの大きなカテゴリーに分類されてはいるが 自分は哲学という名のもと分類される学問ジャンルさえ 人の精神が関連する以上 さらなる大きな受け皿は インド哲学だといえると思うのである つまりインド哲学とは瞑想に代表される 人の高度な沈思熟考や宇宙をどこまでも厳密に分析していくとこにその存在価値があるためで 表面の定義付けはともかく 知っている人も多いとは思うが 世界的に有名な理論物理学者や数学者、あらゆるインテリ相がそれに活路を見出しているところからも用意に想像できるはずである 西洋の哲学者さえ 晩年のハイデッガーのように 「もっと早くこのインド哲学に触れていたら・・・」 と悔しさを噛み締めたのは有名な話である。 もし今の経済学や統治術が間違いのない精巧なものなら それらの中心にあった流れである哲学者のハイデッガーが晩年にこんなセリフを吐くはずもないのである ハイデッガーはそれほど仏教やインド哲学を賞賛したのである
こと我々日本人も護国活動をしているときは、この系統の葛藤をうっすらと自覚しつつも 護国という性質上 それを口にしてしまっては成り立たなくなるという思いから必死に口をつぐんでいる人が多いことを自分は知っている あたり前の話で 日本人とは厳密な数値や理屈で管理される世界が元々は、大嫌いで それはそのまま反共産という形に現れることになる また元々唯物史観がきらいな我々日本人=唯心論民族が 護国活動の場面でこれらジレンマに苛まれないはずがないのだ。単純な人は、政治と宗教は別! これでおわる人もいるかもしれない しかし今の繊細で多感な若者がこのポイントに気付かないはずがないと思うのである 昔の護国運動というのは、明らかな何点かのテーマ化されたカテゴリーがあり 各分野別に少しでも見解が違えば上から徹底して売国奴や共産主義のレッテルを貼られるという非常にナンセンスな側面があった どれだけ悔しい思いをしたことか なんで戦死者を先祖に持つ俺が こんなこと言われないといけないのか!とおもったものだ ほんと新自由主義者や段階の世代の共産主義レッテル貼りには壮絶な怒りがこみ上げ せっかくの護国運動への意気込みに陰りが生じてくるというものである 人間は元々そんな単純な白黒だけで動く生き物ではないのである! そもそも資本主義vs共産主義などという対立は、数多く存在する対立構図のたった1つに過ぎないと自分は思っている そういう意味で自分は2度と自民党を応援することはない ただ政治家個人個人の主張をみていくまでである。
自分も含め護国運動に目覚めている人が話す内容には 必ず 「今の日本人みたいな平和ボケで頭がお花畑になっている状態では・・・」 という話が多いのは言うにおよばずである この中のこのお花畑というのは何を意味しているだろうか?
こういったお花畑が意味するところは、今時 我々日本人の大多数は、以前の江原博之などの登場から続いて 今は引き寄せの法則の拡張版にみられる スピリチュアル系のメンタルモードが大きく関係しているのではないだろうか? 上にもあげたようにこれら以前からいわれているスピリチュアルという言葉も今では、このムーブメントを現すには若干ニュアンスが変化してきていて 日本の現実は、局在的内面趣向主義とでもいうようなそれぞれに特化した精神的メンタリズムがものすごい幅をもっていると感じるのだが みなさんはいかがだろうか?
もちろん 今は江原博之などあまり聞かなくなったが 引き寄せの法則やワンネスという概念のもとに ネット空間では癒やしとかヒーリング、スピリチュアルマスターとか それはそれは様々な"精神的指導者"が横行しているのではないだろうか? これは、その経営のレベルでは多少の競争や争いがあるだろうけど もう昔の新興宗教団体の見難い凌ぎ合いまでもいかず それぞれが周りを気にせず穏和にこれら現代特有の宗教を満喫していると思われるのである 主に非2元論における悟りの領域に甘んじているであろうと思われる。
こういったワンネスの悟りの偏った結末になりがちな非2元論的手法が陥る悪い癖に 非常に近いものに古代原始仏教にみられる六師外道の一つプーラナ・カッサパの教えがある
私の世界・知らない世界―六師外道、プーラナ・カッサパの凄い“教え”!?
このページにも有るように この悟りは、今まで道徳的にどっしりとのしかかっていた親などの存在を亡くした時に押し寄せる精神的ウェイブ=中我が大きく影響し一つの思想をうみだすように思われる
このプーラナ・カッサパの教えを現す原始仏教経典には「霊魂の不生不滅を説いて、人間はどんな行為をしても善にも悪にもならない」といい よって残虐なことでもなんでも許される といった内容が書かれているが もちろんこれは原始仏教教団側の見解だというのは容易に想像がつく おそらく元々は、 そんな単純で残忍な内容ではなかったのでは?とおもうのである それより このプーラナ・カッサパ思想の形態を解読するとき 薄っすらと走る予感が この非2元論によるワンネスの悟りの照覧者思想とでもいうべき意識形態である このワンネスの悟りの体感における悟りは どうしても 存在がその都度存在しているだけ という生気のぬけた 道徳論が剥げ落ちた結果をもたらす側面がある
いってしまえば「私の根源的意識は、究極的見物人のため 傷つくこともなければ今自分が思考している 思考すら見物人として処理し ただただ現象が永久の照覧者の前を通り過ぎるだけだから 全ての思いや拘りを捨て去るという思想に及ぶと思われる
これはただ単なる自分の予想でしかないが 非常に空慮で刹那主義的思想に傾くと予想されるのだ そこにもはや道徳が入り込む余地はない
ただこういった照覧者思想は、現実には、悪事にすら興味もおこらないわけでただただのんびりした日常の自分を演じることになる 平凡な日本人がこうなる分にはさほど気にかかることはないが 反日的工作員の着眼点になりやすいことが気掛かりである
話は元に戻りこの引き寄せ、非2元論にみられるそのほとんどは、インド哲学がベースとなり展開されているコミュニティが多い それで個人個人,自分と相性のあうスピリチュアル団体で実際問題ヒーリングなどの恩恵が感じられ癒やしと安寧を得ているのではないか?と思うのである
こういった今ではそこら中に存在している 小さな団体のスピリチュアルマスター?とかアセッションティチャー?また・・・セラピストとかいいながら それぞれが平安のうちに生活するのは良いことかもしれないが 今時は、そこら中に霊的覚者や悟りのマスターや ものすごくたくさんの達人がいるみたいである 何やら100人200人集まって騒いでいる団体の中に悟りに到達した人が何人もいて 次の瞬間口喧嘩しているとか?(^^)
自分が問題にしているのは、その教義内容がどうこういいたいわけではなく こういった情報場も含めた準スピリチュアルレッスンを現代人が遂行するとき インド哲学などのヴェーダ思想などの背景が 護国運動に向かおうとする意気込みを殺傷してしまうのが気になるのである
つまり 自分も昔から感じているが この系統の思想というか 心意気には、非2元論をその基礎として、全ての問題は唯一不二なる根源意識の現れで それは自分の現れがでたものだから2極的捉え方を超えて受け止めるべし といった精神的因果律に基いた姿勢である そして そういう人が増えれば神や宇宙の恩寵がいきわたり 地球全ての波動が高まり世界全ての人々が戦争を拒否する気分が充満して真の平和が訪れるという大方どんな団体でも予測される基本があるだろう 当然その過程において隣人から他国の人まで愛しなさいという筋書きに至るわけである
ここで非常に複雑なのが これは確かにある程度いえているのである つまりただ単なる思い込みではなく実質効力を発揮している それが故 世界の統治機構も行き過ぎた資本主義の汚点や今までの反応パターンを変えざるおえない部分がでてきている しかし逆の見方もできることを忘れてはいけないといえるだろう 最初にそれが狙いで 世界的にこういったスピリチュアルマスターなるものを構成し それによりその民族特有の牙をおるという見方もできるのである
さらに細かくいえば 最近はもはや団体とかコミュニティすらいらないだろう ちょっと認識力に長けた人は、今時山ほどでているこの系統の本を読めばそのいわんとしている ヴェーダの哲学がわかると思うのである わからないことはネットで調べればいいのであるし 形而上学的にこれを認識した場合 確かに間もなくある種の悟りが訪れ"体感"することになる やがては永遠の照覧者に自己の本分を置くことになる
そうやって 休日や夜の間に、他人と自分を区分けする壁を取っ払う思想に享受を受け 次の瞬間 「反日を許すな! または グローバル売国を許すな!」といいたくてもそう簡単に熱が入るものではないだろう いゃ熱が入らないどころか そういったことにタッチしたくなくなる もしくは拒絶反応をしめしていくといえるだろう。 例え真護国保守の潮流が理解できたとしても こういった内容の 非2元論 全ては1つのものの現れである あるいはワンネスの悟り これらが心を占めている間は、護国運動するような心境には到底なれないだろうと思うわけだ まして 引き寄せの法則でとっても大事な「お金」が入ってくる"魔法"をかけた場合などとても心の底からそんな気分になれないのは当然だろうと思われる。
ことの他 この自分も 瞑想修行に没頭しているときは護国運動に熱をあげる気にはなれないということがある
護国運動というのは 多少なりとも 怒りや攻撃の気分が心を占めるわけで それらを難敵とする スピリチャルモードは到底相容れないのは目にみえている そうそう! 第一その手法は、自分を内的に縛っている制限をとっぱらっていくとこからはじめるわけだから 日本人としての護国運動と噛みあうはずもないのである。
護国運動する人によくわかってもらいたいことの1つに、反日左翼や過度なグローバリズム主義者というのはリアルでは、稀であり 現実のリアル世界では、所詮政治勢力の実情に興味を示すのは 味方と上に挙げた敵2者だけで ほとんどの一般人8割は「そんなもん私には関係ありましぇん」 と無視するのが現状であり その半数を占めているのがこれら小規模もしくは個人スピリチャル系主義者にあるのではないか?と思うのである 今の若者は言うだろう 「うん わかるわかる でもそれはそれでいいんじゃん それは人それぞれの生き方なんだから・・・」 しかし それを言う時点が実は似非グローバリズムが行き渡っているといえるのである それをそんなライトな言い回しで言えている時点で 護国運動の本質は崩壊している だからといって人を強制しろといっているのではもちろんないのであしからず
また非2元のインスピレーションに近い状態にある人は、近年の癒やしやセラビー、ヒーリング もしくは非2元関係の本なども、全部では無いにしても故意的なグローバル資本家による 新たなる日本弱体化の先鋒としてはじまっている部分があることを知るべきだろう ここが気付いていないのであれば その覚醒は甚だ怪しいものといわざるおえないだろう
これら小規模団体&個人スピリチュアル主義者、非2元アーティスト、非2元クリエーターと言われる人達は、ある意味 反日左翼や新自由主義者より厄介な存在である なぜかといえばインド哲学とは実質がともなう現実的な現象学だからだ しかも反日左翼や新自由主義者より さらに強い信念をもっていて生半可な理屈は通用しないだろう ましてワンネスという悟りに似た領域に実際に到達している人は現実に多くなっているのである。
よって護国活動家は、こういった人達専門の対策を考える必用があるといっておこう こういった人達といっても まだ現在の社会規範では、それは非常に個人的なことだから いろんな相に被っているといえる
※少なくとも 梵我一如ワンネスの悟りの域に達している人を護国活動に覚醒してもらうには、ある意味すごく簡単であり ある意味不可能といえるだろう (表現に困る)
また今度は ワンネスの悟りの域に到達した人、また個人的スピリチャリズムに安寧を求める人にいいたいのは、例えば 個人的スピリチャリズムを宗教観として中心に添えることは 、以前みたいな悪質極まりない新興宗教にハマるよりマシだと思うが やはり 1つの団体なら要注意である でも最近のこの系統の団体は決して強制しない点において清浄だといえるだろう また個人的に非ニ言論などの本を自分の哲学に添えている人にも是非聞いてほしいことは 確かに インド哲学はすばらしい また引き寄せの法則系統の団体や本を読んでいるひとは、修練すればシンクロニシティが連発する瞬間が訪れるだろう
それは 何も不思議ではなく 現実の現象となりおこることで やがては 全てがシンクロニシティが連発する瞬間がやってくる やがてはシンクロニシティがあたり前となり その時は体感的ワンネスの状態を意味している やがて永遠の照覧者としてワンネスを実感するだろう でも自国の心=日本人としての集合的無意識を認識できないものは、そのワンネスの悟りも薄っぺらいものとなるだろう なぜならばある意味直観の統合とでもいえるワンネスの認識が間違ったデータベースに基づき行われるため 歪みが内在し 非常に薄っぺらいワンネスのさとりになってしまうのである そのことを自分は経験から充分よくしっている 日本人としての真っ直ぐな心意気(ファクトの歴史観)に基づきなされる悟りは、エネルギーが全然違う ほんと何回もいうが まるで雲泥の差である 日本人としての集合的無意識の部分だけをまるで達磨落としみたいに抜いている ワンネスの悟りは、ほんと細いすずきみたいなものでエネルギーも希薄である しかし 自分のルーツである日本人としての集合的無意識の"存在"をちゃんとファクトとして認識した上での悟りは 莫大なエネルギーであるといえる 濃密さが違うのだ それは何も自分がここで力説しなくても 数学のシュタイナーの定理で有名なルドルフ・シュタイナーもそれは断固として主張している
国民としての集合的無意識のファクトから影響を抜きに真実の悟りはありえないと訴えている いっておくが シュタイナーは世界規模の神秘主義の生みの親といってもいいくらいである 今まで世界から日本の神秘主義に関係するスピリチュアル界で活躍しているほとんどの著述家は、その主張の技術的理論面はほとんどシュタイナーに学んでいることはご存知だろうか?
(元へ)またワンネスの悟りとは ほんとにそれを実観したなら1個人において 究極の穏和な寂しさを実感するものでもあるだろう もはや己自身において精神の自他の区別がそこには存在しないが、その類まれな偶然の閃きの連続でそれに至ったプロセスを考えるとき 心の底から話せる親友が誰もいなくなったことを知るわけで ワンネスの悟りは宝であり英知だが そこには究極の美しき寂しさがあるだろう もちろんこれは個人差もあり 逆に開き直るという手もあるが やはり"個人"としては、思い切り話せる相手は、この実感を確信した者しかありえないと心のどっかでおもうはずである 「おもうはずである」 程度ではないのだ それが全てだから もはや誰もいないのだ ワンネスの悟りの深い静寂に他人はいない なぜかといえば未分化の意識状態を意味しているからである(これは思考ではないから言葉で現すには限界がある)
ワンネスの悟りは 即 次の瞬間に多様性の意味が認識できる瞬間でもある ここからが別れ道である もしこれを個人を超えて政治視点でいうなら さて次に、平和を推進する方に自己表現するべきか? それとも個性重視の方に自己表現するべきか?
(※ もちろんワンネスの悟りというものは こういったマクロ的視野や思考,思想を手放す瞬間でもあるため厳密にいえばこのような捉え方はおかしいといえるが・・・’そこをあえて集合の基本である国民視点、日本人としての集合的無意識を視点にいうならば!という意味)
人間の本質にあるもの
知る人も多いとおもうが小泉義仁さんは明らかにワンネスの覚者域に達している それは政治に関しては足りない知識が多々あったとしても動画でいっていることを聞けばわかるものだ 確かに一角の人だ また今では少なくなった「元々日本人はそんなにお金を重視していなかった・・・」という事実をちゃんと覚えている 今の日本人の欠点の一つである情感の記憶が薄らいでしまい 昔の日本人では考えられないようなチンケで馬鹿なことが常識だと思っている人とは決定的に違うようだ もちろんスピリチュアルテレビでは少し飛んでる演出もあるだろうが 根本は全然違うというのがみてとれる
また明らかに、少なくとも形而上学的認識において ワンネスの悟りの域に達している証が 「人は教えられなくても最初からワンネスの悟りの予感を知っている(予感)、他人は知っている」と表現している点といえるだろう また今の世の中 ゾンビ化している人が多いことも認知している 多分彼も「金」に変わる価値の転換を考えているのかもしれない(予想) 大変勇気付けられる人である
仮に世界全ての人が宇宙意識などの悟りに達したらどうなるか? また世界全ての人が梵我一如ワンネスの悟りに達したらどうだろう?
そこに 個性は存在するだろうか? 彼もいっているとおり この世は それぞれ個性があるからおもしろいのである もちろんそれは個人にしても団体にしても (別に悪質な団体をかばう気はない)もちろん例え世界全ての人がワンネスの悟りに達しても 見かけ上の個性や役割は何も変化はしないだろう ただ面白さを満喫できる心底からの個性が残るのかな?
多分 シンクロニシティが連発したり 2極性を取り除くことで人の病を治すことができ またその恩恵を教授しても 直観の鋭い人はわかるはずである その悟りの段階で次のステップが発生していることを、おそらく 小泉義仁さんはこれらのこと考えたことがあるはずである もちろんこれから先は彼の論評ではなく ただ自分が主張したいことであるが
(※上に上げたのはあくまで自分の見解で、スピリチュアルテレビはたまに見る程度である 交流は無い)
今真正保守という言葉を中心に"保守"という言葉が乱立しているが、自分は保守から最も遠い人間だが超民族主義である それを無理やり保守的観点でいうなら 個性保守ということになる
いってしまえば自分の主張は、高次現象宇宙は どこまでも色とりどりの個性を重視するのである(色キチではない) なぜか? 宇宙は絶えず勉強し変化しているからだ
知っている人は知っているはずである もし世界全ての人がまるで覚者みたいな者になってしまったら? それはその点において現象分岐点0を意味していて 現象宇宙のそのベクトルは存在しなくても良かったということを意味している それはある種 ロールプレイングゲームはこの世に存在するべきではなかったという結論に至っていないだろうか? まぁこのあたりの解釈はいくらでもいえてくる
しかし微分積分した極論、世界人類全て梵我一如の覚者域という状態は、これぞ究極の精神的共産主義となり地球上の精神活動の根底エンジンは停止してしまうだろう 唯物主観よりわけの悪い状態を意味している
現実には、現象宇宙はまだまだダイナミックである そんな単純なものではない、現象宇宙を創りだした根源的意識は もうすでに部分から全体へ 全体から部分へ、また部分から部分へと次のスッテップを続々と打ち出しているのである
それはあなたの中であなた自身が振動して新しい振動周波数をつくりだしているのである もちろんワンネスの悟りを超えていく世界である さらなる先があるのだ
もうひとつは、唯一不可分のたったひとつの意識 精神現象宇宙の初元意識;根源的意識の基盤が、初元からこれから先も永遠に目指しているたっとひとつの思いがわかるだろうか?
とくに男性陣に強く訴えたいのはこの点である この1点においてのみ身近にひそんでいる"怪物"とは違うといえるのである この思いがあるからこそ この現象宇宙がはじまったのである つまり この思いがあったからこそ 現象宇宙は物質と個我意識に分化して 自分で自分を確認して その確認の仕方を多様化して(・・複雑多岐な途中全て省く・・)あなたやら私やら反日左翼やら護国保守からスピリチャルマスターや田中角栄また石原慎太郎を生み出したといえるのである
何のためにつくりだしたのか? 現象宇宙が今もしきりに願っているたったひとつのせつなる思いとは?
その前に、バシャールは、悟りの英知を完結にシンプルにまとめていることは今時スピリチュアルに熱をあげるものは誰でも知っているだろう
バシャールの五原則 以下はこのページより引用
1.あなたは存在する。(You exist.)
2.すべては今ここにある。(Everything is here and now.)
3.一つはすべてでありすべては一つである。(The One is the All and the All are the One.)
4.あなたが外に出したものが自分に返ってくる。(What you put out is what you get back.)
5.以上4つの法則を除いて、すべては変化する。(Everything changes except these four laws.)
これらは、完全だが思いが欠けているのだ 思いが!
"思い"としてはもうひとつあるといえるだろう それはそもそも現象宇宙それ自身が存在を展開したかった心的理由である その心的理由とは 現象宇宙を創り上げている根源意識が メタバースをどんどん創りだしているほどのでかい心的理由である それは何だろう?
もしそれがわかったなら 次のステップである 個性重視の姿勢も考慮するべきではないだろうか? その個性の源である国をおもう心無くして次にはすすめないとおもうのだがいかがだろうか?
(因みに 時空間問わず 世界のあらゆる”部屋”というものを考察してみよう 家具の”種類”が最も多い国はどこだろう? 日本でしょ)
今までは ワンネスの領域に達したなら 個人としての幸福追求から今度はその智慧を日本人としての国家的視点に転換して人生歩んだらいかがだろうか?
ヒーリングティーチャーになるも良し またごくごく平凡に普通に生きていくもよし またでかい腹の飲んべぇおっさんになり、でかい尻の猛獣に蹴り飛ばされるも良し しかし気がついてみると街の風景がいつの間にやら外国のそれとあまり変わらなくなっているのは ワンネス覚者では無く日本人としてあまりにやりきれない話ではないだろうか?
また気付いてみたら そこいらじゅうなんでもかんでも金!金!金! 契約契約契約 というのはもはや日本社会とはいえないだろう もちろんそこら中スピリチュアルというのもちょっと気味悪い話だが(^^)
もはや国という文化がごちゃまぜになっている様をみながら寿命つきるのは、 ワンネスの覚者が残念に思わないはずがないと自分はおもうのである
日本の真の護国運動家は誰も今更軍事力を強化して他国を攻めるとか他国を威圧するなどと 誰一人としてそんなことはいっていないのである ほんとそんなものは最初から一人もいないのである
最低限自立した国家に導きたいだけなのである 梵我一如ワンネスの悟りを得て最低限の国家の独立という意味を そのあたりのニュアンスがわからないようでは そのワンネスの悟りは、その状態からそれ以上発展することはないだろう 時間はかからざるおえない しかし我々は一歩一歩やっていくことを忘れるべからず
ワンネス認識者またはワンネスを目指す人にいいたい たこ焼きは、食べる者ばかりでは 一発でなくなってしまうだろう やはりいろいろ入っているから美味となる しかし具材を作りながら食べる側にいくものがいるだろうか?
非二元?なんじゃそれ?という人にいいたのは、一刻も早くワンネスとは? とせめて”形而上学的”に完全認識することを勧める 重要なことだといっておく
なぜかといえば 世界を金で動かす狡猾な輩の意図を、思考でも"感覚"でも見抜く目を養うためでもあるし、反日分子や過度な新自由主義者、にやられるという意味だけでなく その前に我々の身近にひそんでいる”怪物”にやられてしまうからである。くれぐれもいっておく 敵はまず"怪物"を手なずけるところからはじめるのである
視点は変わるがちょっと考えてみればわかるはずである 誰も彼もが、癒しや、世界みな一つ、ただそれが存在しているだけ・・・ といいながら安穏とした日々を送っているとき 狡猾な外国の部隊が表面の平和を装って入ってくる まるで友達だ 気がついたときは見かけだけでなく 戦わずして国土が乗っ取られている スピリチャルに熱をあげている人に聞きたいのは こんなこと考えたことがあるのか? ということである かつてのインカ文明はどうであったか? また戦争で負ける前の日本には、このあたりのことをちゃんと考える学問が存在していたのである
ネイティブアメリカンの教え
◯ 東京のとある街で 非常に目立った政治運動をやっているにも関わらず 巨体で堂々と のしのしとまん丸の柔らかなオーラを放って歩いている人をみることがある チャンネル桜の水嶋社長だ
2度会話したことがあるが この人からは 柔らかく人を包みこむ大きなまん丸のオーラが放たれている。今まで、誰よりも比較にならないほど 日本の覚醒に尽力してきた人といえるであろう 恐らく究極の葛藤を抱えながら日夜闘っておられる姿に敬意を評したい まず社長の命懸けのご尽力がなければそもそも新護国の潮流がおこらなかったわけで 途中いろいろあっても 複雑多岐なプロセスがあったとて 最後は日本国民であるならば社長に感謝するべきである
世界を真に動かす最強の会議、ビルダーバーグ会議
(※護国運動する人をみてすぐ危険な右翼などと評する人にいっておく 自分は街で社長に会った時 社長は、政治の話など何一切されなかった それどころか この自分にとって最も適切な言葉をかけてくれて深々と礼をしたことを述べておく 護国運動家をすぐ右翼右翼という洗脳されきった人は未だに多い 目を覚ますべきである)
◯ かつて 個人、団体問わず 過去 誰もが部落解放同盟と聞くやいなや 恐れてタブーにしていたことはいい歳した大人なら誰でも覚えているだろう 以前チャンネル桜でみたが その部落解放同盟に堂々と乗り込んでいって正論をぶちまけて ついで国会でも、一歩も怯むことなく反日議員を駆逐したのが三宅博さんである 何としてもまた国会に返り咲いてほしいものである
政治家として志すこと、NHK解体・汚職教科書の排除・拉致被害者の奪還・そして国家の自立
◯ 次に、かつて金権政治の代表格であった田中角栄 その政敵であった石原さんが最近綴った本「天才」の内容のあらましだ
金スマ 石原慎太郎×田中角栄
余談ではあるが 東京都知事いゃ日本を牽引してきた大きな一角の雄に 背景に赤い服のギャルを数十人も並べたて迎えるとは甚だ無礼千万な態度である TBSも朝日とレベルがあまり変わってないといえるだろう 全く怒りに体が震えるほどむかっ腹がたつ話である 別に自分は石原さんを過度に引きてるためにいっているのではない この番組の構成を考えたアホに怒りがこみ上げる次第だ! このような感覚が非日本人的といえる ボケが!ふざけるな!(おっと感情に押されてはいけない ストップ!)
こうやってみると 誰しも日本人として最も大切な部分を守ろうとして争うということがわかるものだ、なぜこんなことになるのか? 本来ならこれら誰もが創造主義に基づき 今頃宇宙的視野でものを見て感じて自分の創造活動と精神活動また娯楽を勤しむ運命にあるのに、我々日本人としての主義心情が欧米の金持ち連中に操作され闘争へと変換されてしまうことが有り有りとわかるというものである それがわかったなら一見 今の企業や団体にも どこにその系譜があるか要チェックが必用である しかしまた我々も生活をする以上どっかでこれらに関わっているのである よって多少のことは多目にみないといけないだろう ただこれからは、物事の価値を金だけでみている輩にはそれが友達だろうが会社だろうが、厳しい視線で接していくべきである 反日はもっての外というのは言うに及ばないことだ、またこれからは政治組織学 政治力学構造にまだまだ神経質になるべきである
移民に関して侍JPさんのブログ
党により綺麗に賛否が分かれている ・・・これは2重に問題がある 特区法が問題だが、その前に、党でもこんなことは意見が別れて当然なのだが なぜにこれほど党により白黒が別れるのか? 機械じゃないんだから こういうところからも 政党政治の終焉を意味している もう我々はそろそろ”金”というものを破棄して 名誉や美徳を価値とする創造主義社会に切り替えていくのが理想的である 少なくてもその思想基盤を創らないといけないといえるだろう
また山本太郎に関しては、以前のご皇室への無礼、をかえりみるにこれだけで信用する気にはなれない
現実は、人によりこれほど違っているのである 我々はそろそろ 個人の遺伝子レベルからの"純"な表現や欲求を実現させる 社会像を考える必用に迫られているのではないだろうか?
少なくても!少なくても その思想的基盤を考える必用がある 古びた昔のヨーロッパの貴族やゴロツキが創った金に収束していく価値流通システムになんでこだわらなきゃいけないのか?
(例えば ベンサムはタバコを吸った快楽度は・・・で 食事をした快楽度は・・・)こんなものを数値化して モデル化し社会学を考えていたらしい もちろんそれから歴史を経て経済学やそれに基づいた統治学がでてくるわけだが まぁ~ 我々日本人のそれとは 全然違うでしょ 全然! まさに空想的資本主義といえるのではないだろうか? 現実はそれが力で実態化されてきたといえると思われる
話は変わり 上に示す記事とは視点が違うが 今日は主にネットで見かける、スピリチュアルに熱をあげている人、自己啓発に躍起になっている人 密かにスピリチュアルや自己啓発を信望している人に向かって記事を書くことにした 新時代の保守の潮流を多少でも実感できる人で 東洋の瞑想的世界の追求を怠らない人は、人一倍複雑な思いにかられるだろう
もちろん自分もそのうちの一人であるから その種の葛藤がよくわかる でもまだ現在はこの種の葛藤も昔に比べたら幾分マシである。
(余談)昔自分は 街宣右翼の信奉者に日本人としての瞑想的世界観をわからせようと躍起になっていたときがあるが、当然空振りに終わったことは言うまでもなしである
インド哲学;ウパニシャッドまたはヴェーダでいわれるところの現象宇宙観を多少でも認識できるものにとって どうしても国の垣根を強くしようとする性質が強まる護国運動またはその思想的背景は 一筋縄でいくものではない もちろんそれは政教分離 あるいは 物事の区別をしっかりやったとて! 心の内奥の思想的認識にあっては、そんな簡単にしっくりくるものではないはずである。
特に 政治政策ではなく その背景にある思想部分での話だ よって 自分は 人気を誇る 「引き寄せの法則」に躍起になる現代人が そう簡単に護国的国家観をしっかり考えるということが如何に難解であるかよくよくわかるものである
なぜかといえば 引き寄せの法則 にみられる思想背景には ヴェーダやウパニシャッドにみられるインド哲学があるし そうこう言う前に 近年のヨガブームは尚いっそうその思考を強めること間違いないからである ある意味これは 反日左翼や新自由主義者よりも手強い相手であり 自分はここを考慮せずして真の護国運動などありえないと思うのである
護国運動家にとって、もう今では日本人の大多数がその知識の断片をおぼろげながら知ることとなったインド哲学が、そのあたりのちょっとした新興宗教レベルの狭い範囲の1ジャンルで割り切れる趣向の1つなら何も気にすることはないのである。 しかし誰もが知っている仏教、いゃキリスト教さえ このインド哲学の影響を受けてできたものであり そもそもインド哲学とは 精神と物質それそのものを厳密に認識していく学問であり現象学である 西洋の哲学史では かろうじて1つの大きなカテゴリーに分類されてはいるが 自分は哲学という名のもと分類される学問ジャンルさえ 人の精神が関連する以上 さらなる大きな受け皿は インド哲学だといえると思うのである つまりインド哲学とは瞑想に代表される 人の高度な沈思熟考や宇宙をどこまでも厳密に分析していくとこにその存在価値があるためで 表面の定義付けはともかく 知っている人も多いとは思うが 世界的に有名な理論物理学者や数学者、あらゆるインテリ相がそれに活路を見出しているところからも用意に想像できるはずである 西洋の哲学者さえ 晩年のハイデッガーのように 「もっと早くこのインド哲学に触れていたら・・・」 と悔しさを噛み締めたのは有名な話である。 もし今の経済学や統治術が間違いのない精巧なものなら それらの中心にあった流れである哲学者のハイデッガーが晩年にこんなセリフを吐くはずもないのである ハイデッガーはそれほど仏教やインド哲学を賞賛したのである
こと我々日本人も護国活動をしているときは、この系統の葛藤をうっすらと自覚しつつも 護国という性質上 それを口にしてしまっては成り立たなくなるという思いから必死に口をつぐんでいる人が多いことを自分は知っている あたり前の話で 日本人とは厳密な数値や理屈で管理される世界が元々は、大嫌いで それはそのまま反共産という形に現れることになる また元々唯物史観がきらいな我々日本人=唯心論民族が 護国活動の場面でこれらジレンマに苛まれないはずがないのだ。単純な人は、政治と宗教は別! これでおわる人もいるかもしれない しかし今の繊細で多感な若者がこのポイントに気付かないはずがないと思うのである 昔の護国運動というのは、明らかな何点かのテーマ化されたカテゴリーがあり 各分野別に少しでも見解が違えば上から徹底して売国奴や共産主義のレッテルを貼られるという非常にナンセンスな側面があった どれだけ悔しい思いをしたことか なんで戦死者を先祖に持つ俺が こんなこと言われないといけないのか!とおもったものだ ほんと新自由主義者や段階の世代の共産主義レッテル貼りには壮絶な怒りがこみ上げ せっかくの護国運動への意気込みに陰りが生じてくるというものである 人間は元々そんな単純な白黒だけで動く生き物ではないのである! そもそも資本主義vs共産主義などという対立は、数多く存在する対立構図のたった1つに過ぎないと自分は思っている そういう意味で自分は2度と自民党を応援することはない ただ政治家個人個人の主張をみていくまでである。
自分も含め護国運動に目覚めている人が話す内容には 必ず 「今の日本人みたいな平和ボケで頭がお花畑になっている状態では・・・」 という話が多いのは言うにおよばずである この中のこのお花畑というのは何を意味しているだろうか?
こういったお花畑が意味するところは、今時 我々日本人の大多数は、以前の江原博之などの登場から続いて 今は引き寄せの法則の拡張版にみられる スピリチュアル系のメンタルモードが大きく関係しているのではないだろうか? 上にもあげたようにこれら以前からいわれているスピリチュアルという言葉も今では、このムーブメントを現すには若干ニュアンスが変化してきていて 日本の現実は、局在的内面趣向主義とでもいうようなそれぞれに特化した精神的メンタリズムがものすごい幅をもっていると感じるのだが みなさんはいかがだろうか?
もちろん 今は江原博之などあまり聞かなくなったが 引き寄せの法則やワンネスという概念のもとに ネット空間では癒やしとかヒーリング、スピリチュアルマスターとか それはそれは様々な"精神的指導者"が横行しているのではないだろうか? これは、その経営のレベルでは多少の競争や争いがあるだろうけど もう昔の新興宗教団体の見難い凌ぎ合いまでもいかず それぞれが周りを気にせず穏和にこれら現代特有の宗教を満喫していると思われるのである 主に非2元論における悟りの領域に甘んじているであろうと思われる。
こういったワンネスの悟りの偏った結末になりがちな非2元論的手法が陥る悪い癖に 非常に近いものに古代原始仏教にみられる六師外道の一つプーラナ・カッサパの教えがある
私の世界・知らない世界―六師外道、プーラナ・カッサパの凄い“教え”!?
このページにも有るように この悟りは、今まで道徳的にどっしりとのしかかっていた親などの存在を亡くした時に押し寄せる精神的ウェイブ=中我が大きく影響し一つの思想をうみだすように思われる
このプーラナ・カッサパの教えを現す原始仏教経典には「霊魂の不生不滅を説いて、人間はどんな行為をしても善にも悪にもならない」といい よって残虐なことでもなんでも許される といった内容が書かれているが もちろんこれは原始仏教教団側の見解だというのは容易に想像がつく おそらく元々は、 そんな単純で残忍な内容ではなかったのでは?とおもうのである それより このプーラナ・カッサパ思想の形態を解読するとき 薄っすらと走る予感が この非2元論によるワンネスの悟りの照覧者思想とでもいうべき意識形態である このワンネスの悟りの体感における悟りは どうしても 存在がその都度存在しているだけ という生気のぬけた 道徳論が剥げ落ちた結果をもたらす側面がある
いってしまえば「私の根源的意識は、究極的見物人のため 傷つくこともなければ今自分が思考している 思考すら見物人として処理し ただただ現象が永久の照覧者の前を通り過ぎるだけだから 全ての思いや拘りを捨て去るという思想に及ぶと思われる
これはただ単なる自分の予想でしかないが 非常に空慮で刹那主義的思想に傾くと予想されるのだ そこにもはや道徳が入り込む余地はない
ただこういった照覧者思想は、現実には、悪事にすら興味もおこらないわけでただただのんびりした日常の自分を演じることになる 平凡な日本人がこうなる分にはさほど気にかかることはないが 反日的工作員の着眼点になりやすいことが気掛かりである
話は元に戻りこの引き寄せ、非2元論にみられるそのほとんどは、インド哲学がベースとなり展開されているコミュニティが多い それで個人個人,自分と相性のあうスピリチュアル団体で実際問題ヒーリングなどの恩恵が感じられ癒やしと安寧を得ているのではないか?と思うのである
こういった今ではそこら中に存在している 小さな団体のスピリチュアルマスター?とかアセッションティチャー?また・・・セラピストとかいいながら それぞれが平安のうちに生活するのは良いことかもしれないが 今時は、そこら中に霊的覚者や悟りのマスターや ものすごくたくさんの達人がいるみたいである 何やら100人200人集まって騒いでいる団体の中に悟りに到達した人が何人もいて 次の瞬間口喧嘩しているとか?(^^)
自分が問題にしているのは、その教義内容がどうこういいたいわけではなく こういった情報場も含めた準スピリチュアルレッスンを現代人が遂行するとき インド哲学などのヴェーダ思想などの背景が 護国運動に向かおうとする意気込みを殺傷してしまうのが気になるのである
つまり 自分も昔から感じているが この系統の思想というか 心意気には、非2元論をその基礎として、全ての問題は唯一不二なる根源意識の現れで それは自分の現れがでたものだから2極的捉え方を超えて受け止めるべし といった精神的因果律に基いた姿勢である そして そういう人が増えれば神や宇宙の恩寵がいきわたり 地球全ての波動が高まり世界全ての人々が戦争を拒否する気分が充満して真の平和が訪れるという大方どんな団体でも予測される基本があるだろう 当然その過程において隣人から他国の人まで愛しなさいという筋書きに至るわけである
ここで非常に複雑なのが これは確かにある程度いえているのである つまりただ単なる思い込みではなく実質効力を発揮している それが故 世界の統治機構も行き過ぎた資本主義の汚点や今までの反応パターンを変えざるおえない部分がでてきている しかし逆の見方もできることを忘れてはいけないといえるだろう 最初にそれが狙いで 世界的にこういったスピリチュアルマスターなるものを構成し それによりその民族特有の牙をおるという見方もできるのである
さらに細かくいえば 最近はもはや団体とかコミュニティすらいらないだろう ちょっと認識力に長けた人は、今時山ほどでているこの系統の本を読めばそのいわんとしている ヴェーダの哲学がわかると思うのである わからないことはネットで調べればいいのであるし 形而上学的にこれを認識した場合 確かに間もなくある種の悟りが訪れ"体感"することになる やがては永遠の照覧者に自己の本分を置くことになる
そうやって 休日や夜の間に、他人と自分を区分けする壁を取っ払う思想に享受を受け 次の瞬間 「反日を許すな! または グローバル売国を許すな!」といいたくてもそう簡単に熱が入るものではないだろう いゃ熱が入らないどころか そういったことにタッチしたくなくなる もしくは拒絶反応をしめしていくといえるだろう。 例え真護国保守の潮流が理解できたとしても こういった内容の 非2元論 全ては1つのものの現れである あるいはワンネスの悟り これらが心を占めている間は、護国運動するような心境には到底なれないだろうと思うわけだ まして 引き寄せの法則でとっても大事な「お金」が入ってくる"魔法"をかけた場合などとても心の底からそんな気分になれないのは当然だろうと思われる。
ことの他 この自分も 瞑想修行に没頭しているときは護国運動に熱をあげる気にはなれないということがある
護国運動というのは 多少なりとも 怒りや攻撃の気分が心を占めるわけで それらを難敵とする スピリチャルモードは到底相容れないのは目にみえている そうそう! 第一その手法は、自分を内的に縛っている制限をとっぱらっていくとこからはじめるわけだから 日本人としての護国運動と噛みあうはずもないのである。
護国運動する人によくわかってもらいたいことの1つに、反日左翼や過度なグローバリズム主義者というのはリアルでは、稀であり 現実のリアル世界では、所詮政治勢力の実情に興味を示すのは 味方と上に挙げた敵2者だけで ほとんどの一般人8割は「そんなもん私には関係ありましぇん」 と無視するのが現状であり その半数を占めているのがこれら小規模もしくは個人スピリチャル系主義者にあるのではないか?と思うのである 今の若者は言うだろう 「うん わかるわかる でもそれはそれでいいんじゃん それは人それぞれの生き方なんだから・・・」 しかし それを言う時点が実は似非グローバリズムが行き渡っているといえるのである それをそんなライトな言い回しで言えている時点で 護国運動の本質は崩壊している だからといって人を強制しろといっているのではもちろんないのであしからず
また非2元のインスピレーションに近い状態にある人は、近年の癒やしやセラビー、ヒーリング もしくは非2元関係の本なども、全部では無いにしても故意的なグローバル資本家による 新たなる日本弱体化の先鋒としてはじまっている部分があることを知るべきだろう ここが気付いていないのであれば その覚醒は甚だ怪しいものといわざるおえないだろう
これら小規模団体&個人スピリチュアル主義者、非2元アーティスト、非2元クリエーターと言われる人達は、ある意味 反日左翼や新自由主義者より厄介な存在である なぜかといえばインド哲学とは実質がともなう現実的な現象学だからだ しかも反日左翼や新自由主義者より さらに強い信念をもっていて生半可な理屈は通用しないだろう ましてワンネスという悟りに似た領域に実際に到達している人は現実に多くなっているのである。
よって護国活動家は、こういった人達専門の対策を考える必用があるといっておこう こういった人達といっても まだ現在の社会規範では、それは非常に個人的なことだから いろんな相に被っているといえる
※少なくとも 梵我一如ワンネスの悟りの域に達している人を護国活動に覚醒してもらうには、ある意味すごく簡単であり ある意味不可能といえるだろう (表現に困る)
また今度は ワンネスの悟りの域に到達した人、また個人的スピリチャリズムに安寧を求める人にいいたいのは、例えば 個人的スピリチャリズムを宗教観として中心に添えることは 、以前みたいな悪質極まりない新興宗教にハマるよりマシだと思うが やはり 1つの団体なら要注意である でも最近のこの系統の団体は決して強制しない点において清浄だといえるだろう また個人的に非ニ言論などの本を自分の哲学に添えている人にも是非聞いてほしいことは 確かに インド哲学はすばらしい また引き寄せの法則系統の団体や本を読んでいるひとは、修練すればシンクロニシティが連発する瞬間が訪れるだろう
それは 何も不思議ではなく 現実の現象となりおこることで やがては 全てがシンクロニシティが連発する瞬間がやってくる やがてはシンクロニシティがあたり前となり その時は体感的ワンネスの状態を意味している やがて永遠の照覧者としてワンネスを実感するだろう でも自国の心=日本人としての集合的無意識を認識できないものは、そのワンネスの悟りも薄っぺらいものとなるだろう なぜならばある意味直観の統合とでもいえるワンネスの認識が間違ったデータベースに基づき行われるため 歪みが内在し 非常に薄っぺらいワンネスのさとりになってしまうのである そのことを自分は経験から充分よくしっている 日本人としての真っ直ぐな心意気(ファクトの歴史観)に基づきなされる悟りは、エネルギーが全然違う ほんと何回もいうが まるで雲泥の差である 日本人としての集合的無意識の部分だけをまるで達磨落としみたいに抜いている ワンネスの悟りは、ほんと細いすずきみたいなものでエネルギーも希薄である しかし 自分のルーツである日本人としての集合的無意識の"存在"をちゃんとファクトとして認識した上での悟りは 莫大なエネルギーであるといえる 濃密さが違うのだ それは何も自分がここで力説しなくても 数学のシュタイナーの定理で有名なルドルフ・シュタイナーもそれは断固として主張している
国民としての集合的無意識のファクトから影響を抜きに真実の悟りはありえないと訴えている いっておくが シュタイナーは世界規模の神秘主義の生みの親といってもいいくらいである 今まで世界から日本の神秘主義に関係するスピリチュアル界で活躍しているほとんどの著述家は、その主張の技術的理論面はほとんどシュタイナーに学んでいることはご存知だろうか?
(元へ)またワンネスの悟りとは ほんとにそれを実観したなら1個人において 究極の穏和な寂しさを実感するものでもあるだろう もはや己自身において精神の自他の区別がそこには存在しないが、その類まれな偶然の閃きの連続でそれに至ったプロセスを考えるとき 心の底から話せる親友が誰もいなくなったことを知るわけで ワンネスの悟りは宝であり英知だが そこには究極の美しき寂しさがあるだろう もちろんこれは個人差もあり 逆に開き直るという手もあるが やはり"個人"としては、思い切り話せる相手は、この実感を確信した者しかありえないと心のどっかでおもうはずである 「おもうはずである」 程度ではないのだ それが全てだから もはや誰もいないのだ ワンネスの悟りの深い静寂に他人はいない なぜかといえば未分化の意識状態を意味しているからである(これは思考ではないから言葉で現すには限界がある)
ワンネスの悟りは 即 次の瞬間に多様性の意味が認識できる瞬間でもある ここからが別れ道である もしこれを個人を超えて政治視点でいうなら さて次に、平和を推進する方に自己表現するべきか? それとも個性重視の方に自己表現するべきか?
(※ もちろんワンネスの悟りというものは こういったマクロ的視野や思考,思想を手放す瞬間でもあるため厳密にいえばこのような捉え方はおかしいといえるが・・・’そこをあえて集合の基本である国民視点、日本人としての集合的無意識を視点にいうならば!という意味)
人間の本質にあるもの
知る人も多いとおもうが小泉義仁さんは明らかにワンネスの覚者域に達している それは政治に関しては足りない知識が多々あったとしても動画でいっていることを聞けばわかるものだ 確かに一角の人だ また今では少なくなった「元々日本人はそんなにお金を重視していなかった・・・」という事実をちゃんと覚えている 今の日本人の欠点の一つである情感の記憶が薄らいでしまい 昔の日本人では考えられないようなチンケで馬鹿なことが常識だと思っている人とは決定的に違うようだ もちろんスピリチュアルテレビでは少し飛んでる演出もあるだろうが 根本は全然違うというのがみてとれる
また明らかに、少なくとも形而上学的認識において ワンネスの悟りの域に達している証が 「人は教えられなくても最初からワンネスの悟りの予感を知っている(予感)、他人は知っている」と表現している点といえるだろう また今の世の中 ゾンビ化している人が多いことも認知している 多分彼も「金」に変わる価値の転換を考えているのかもしれない(予想) 大変勇気付けられる人である
仮に世界全ての人が宇宙意識などの悟りに達したらどうなるか? また世界全ての人が梵我一如ワンネスの悟りに達したらどうだろう?
そこに 個性は存在するだろうか? 彼もいっているとおり この世は それぞれ個性があるからおもしろいのである もちろんそれは個人にしても団体にしても (別に悪質な団体をかばう気はない)もちろん例え世界全ての人がワンネスの悟りに達しても 見かけ上の個性や役割は何も変化はしないだろう ただ面白さを満喫できる心底からの個性が残るのかな?
多分 シンクロニシティが連発したり 2極性を取り除くことで人の病を治すことができ またその恩恵を教授しても 直観の鋭い人はわかるはずである その悟りの段階で次のステップが発生していることを、おそらく 小泉義仁さんはこれらのこと考えたことがあるはずである もちろんこれから先は彼の論評ではなく ただ自分が主張したいことであるが
(※上に上げたのはあくまで自分の見解で、スピリチュアルテレビはたまに見る程度である 交流は無い)
今真正保守という言葉を中心に"保守"という言葉が乱立しているが、自分は保守から最も遠い人間だが超民族主義である それを無理やり保守的観点でいうなら 個性保守ということになる
いってしまえば自分の主張は、高次現象宇宙は どこまでも色とりどりの個性を重視するのである(色キチではない) なぜか? 宇宙は絶えず勉強し変化しているからだ
知っている人は知っているはずである もし世界全ての人がまるで覚者みたいな者になってしまったら? それはその点において現象分岐点0を意味していて 現象宇宙のそのベクトルは存在しなくても良かったということを意味している それはある種 ロールプレイングゲームはこの世に存在するべきではなかったという結論に至っていないだろうか? まぁこのあたりの解釈はいくらでもいえてくる
しかし微分積分した極論、世界人類全て梵我一如の覚者域という状態は、これぞ究極の精神的共産主義となり地球上の精神活動の根底エンジンは停止してしまうだろう 唯物主観よりわけの悪い状態を意味している
現実には、現象宇宙はまだまだダイナミックである そんな単純なものではない、現象宇宙を創りだした根源的意識は もうすでに部分から全体へ 全体から部分へ、また部分から部分へと次のスッテップを続々と打ち出しているのである
それはあなたの中であなた自身が振動して新しい振動周波数をつくりだしているのである もちろんワンネスの悟りを超えていく世界である さらなる先があるのだ
もうひとつは、唯一不可分のたったひとつの意識 精神現象宇宙の初元意識;根源的意識の基盤が、初元からこれから先も永遠に目指しているたっとひとつの思いがわかるだろうか?
とくに男性陣に強く訴えたいのはこの点である この1点においてのみ身近にひそんでいる"怪物"とは違うといえるのである この思いがあるからこそ この現象宇宙がはじまったのである つまり この思いがあったからこそ 現象宇宙は物質と個我意識に分化して 自分で自分を確認して その確認の仕方を多様化して(・・複雑多岐な途中全て省く・・)あなたやら私やら反日左翼やら護国保守からスピリチャルマスターや田中角栄また石原慎太郎を生み出したといえるのである
何のためにつくりだしたのか? 現象宇宙が今もしきりに願っているたったひとつのせつなる思いとは?
その前に、バシャールは、悟りの英知を完結にシンプルにまとめていることは今時スピリチュアルに熱をあげるものは誰でも知っているだろう
バシャールの五原則 以下はこのページより引用
1.あなたは存在する。(You exist.)
2.すべては今ここにある。(Everything is here and now.)
3.一つはすべてでありすべては一つである。(The One is the All and the All are the One.)
4.あなたが外に出したものが自分に返ってくる。(What you put out is what you get back.)
5.以上4つの法則を除いて、すべては変化する。(Everything changes except these four laws.)
これらは、完全だが思いが欠けているのだ 思いが!
"思い"としてはもうひとつあるといえるだろう それはそもそも現象宇宙それ自身が存在を展開したかった心的理由である その心的理由とは 現象宇宙を創り上げている根源意識が メタバースをどんどん創りだしているほどのでかい心的理由である それは何だろう?
もしそれがわかったなら 次のステップである 個性重視の姿勢も考慮するべきではないだろうか? その個性の源である国をおもう心無くして次にはすすめないとおもうのだがいかがだろうか?
(因みに 時空間問わず 世界のあらゆる”部屋”というものを考察してみよう 家具の”種類”が最も多い国はどこだろう? 日本でしょ)
今までは ワンネスの領域に達したなら 個人としての幸福追求から今度はその智慧を日本人としての国家的視点に転換して人生歩んだらいかがだろうか?
ヒーリングティーチャーになるも良し またごくごく平凡に普通に生きていくもよし またでかい腹の飲んべぇおっさんになり、でかい尻の猛獣に蹴り飛ばされるも良し しかし気がついてみると街の風景がいつの間にやら外国のそれとあまり変わらなくなっているのは ワンネス覚者では無く日本人としてあまりにやりきれない話ではないだろうか?
また気付いてみたら そこいらじゅうなんでもかんでも金!金!金! 契約契約契約 というのはもはや日本社会とはいえないだろう もちろんそこら中スピリチュアルというのもちょっと気味悪い話だが(^^)
もはや国という文化がごちゃまぜになっている様をみながら寿命つきるのは、 ワンネスの覚者が残念に思わないはずがないと自分はおもうのである
日本の真の護国運動家は誰も今更軍事力を強化して他国を攻めるとか他国を威圧するなどと 誰一人としてそんなことはいっていないのである ほんとそんなものは最初から一人もいないのである
最低限自立した国家に導きたいだけなのである 梵我一如ワンネスの悟りを得て最低限の国家の独立という意味を そのあたりのニュアンスがわからないようでは そのワンネスの悟りは、その状態からそれ以上発展することはないだろう 時間はかからざるおえない しかし我々は一歩一歩やっていくことを忘れるべからず
ワンネス認識者またはワンネスを目指す人にいいたい たこ焼きは、食べる者ばかりでは 一発でなくなってしまうだろう やはりいろいろ入っているから美味となる しかし具材を作りながら食べる側にいくものがいるだろうか?
非二元?なんじゃそれ?という人にいいたのは、一刻も早くワンネスとは? とせめて”形而上学的”に完全認識することを勧める 重要なことだといっておく
なぜかといえば 世界を金で動かす狡猾な輩の意図を、思考でも"感覚"でも見抜く目を養うためでもあるし、反日分子や過度な新自由主義者、にやられるという意味だけでなく その前に我々の身近にひそんでいる”怪物”にやられてしまうからである。くれぐれもいっておく 敵はまず"怪物"を手なずけるところからはじめるのである
視点は変わるがちょっと考えてみればわかるはずである 誰も彼もが、癒しや、世界みな一つ、ただそれが存在しているだけ・・・ といいながら安穏とした日々を送っているとき 狡猾な外国の部隊が表面の平和を装って入ってくる まるで友達だ 気がついたときは見かけだけでなく 戦わずして国土が乗っ取られている スピリチャルに熱をあげている人に聞きたいのは こんなこと考えたことがあるのか? ということである かつてのインカ文明はどうであったか? また戦争で負ける前の日本には、このあたりのことをちゃんと考える学問が存在していたのである
ネイティブアメリカンの教え
