どうも言論界というのは、知識のための知識? 何が正統で何が偽物だとか そういった議論が最近までどれだけ人をアホにしていくか そんなことを考えるのは自分だけだろうか?
勉強などというものは、勉強のための勉強になった時点で終わりである。机上の空論で絵空事に至ったことの証明である。どんな思想もそうである 思想のための思想であってはいけないのだ
瞑想的世界も全く同じである。瞑想的世界は教義のためにあるのでない!というのが自分の信念である 最後に”現実世界の実践”で役にたった時にその行動基盤にあった理念が生きるといえるだろう。つまり自分にとっての瞑想は厳然とした動機と実証を基にした世界観にのって行っている
瞑想の動機 もともと自分が瞑想的世界に関心を抱いたのは、高校時代のある体験が発端となった 子供時分から人情や正義感は強かったが、世界観は宇宙戦艦ヤマトに触発された世代ということもあり、それまでは科学的なことにしか関心がなく将来は学者を目指していたが 幸せの絶頂期であるはずの高校時代 ある日突然死を考えさせられる体験をして、その時期たまたま本屋で目にした本に瞑想なるもののことが書かれていた 中でも科学少年であった自分が釘付けになったのが 凝念・静慮・三昧の解説である
( ※この凝念・静慮・三昧についての解説はここでは省略する 関心ある人はネットで調べられたし )
それまで科学少年で現象の明証性は科学しか信じない自分にとって この凝念・静慮・三昧の解説のみが理系的思考から文系的な世界への唯一の突破口となった
それから本屋にいけば東洋哲学系の本を読みあさるようになった また密教やヨーガへの関心は日に日に高まった。
しかしそのころは瞑想と座禅は違っていて瞑想なるものは 密教の厳密な環境下のみで実践されるもので下準備が必要な大掛かりなものという先入観が強く実際瞑想をやりはじめるのは20代半ばに至る。
20代半ばに 初めて正社員として勤務した一応ホワイトカラーの会社員というもので果敢に新規営業で成績を伸ばし ある時期成果報酬をかなりの額得ていた時期もあり 生活には満足していたが もっと幅の広い営業にチャレンジしたくなりその会社を間もなく去った しかしそれからの転職活動がなかなか上手く行かず そもそも前の会社みたいに自分にしっくりくるものが見つからない
その時にもう一度将来を真剣に分析することにして その時分の職安での職業適性検査や適職相談など随分やったけど 全部話しにならないと思った そこで自分で思いや関心事のフローチャートをつくり 細かく自己分析した 確か高校の大学受験時も似たような思いにかられてたが やればやるほど迷妄に突き進んんでいくのである
例えば どの分野に最も関心があるといっても 大学でいえばほとんどの学部全てに関心があるし興味がある この時も職安に通いつくづく思ったことは 自分が興味を抱く分野はどうしても これ!といいきれないのである。 おそらく似たような思いに駆られた人は多いのではないだろうか? 人間30以上にもなれば否応無しに得意分野とそうでないものは以前その人の「経験や実績」が問われ 自ずと大体の分野が決まってくるものだが でもここで考えてもらいたいのは それは 社会がそうでないと認めないからという打算の上での話しじゃないですか? という点である もし何もかもリセットできるとして 「あなたが最もやっていきたい分野は何ですか?」 と言われた場合と現代のリアル世界の会社の面接では あなたは全く違う自分を演出するでしょう そんなことは分析せずともわかることである
例えば今の自分が 過去を全てをリセットして教育は社会が全てやるから 本当にあなたがやっていきたい職は何ですか?と言われたなら迷わず答えるのは大学の理工学部か生物学の研究 また人文系では 何の迷いもなく高野山専修学校にいくだろうと思う それが叶わなくても今の自分が負っているリアル世界での社会的責任がなければ即修験道行者の道にいくだろうと思う
しかし昔の完全に平和ボケにバブルの余韻が残っていた当時 そんな極端な発想は全くなく サラリーマンとして可能な限り自分に向いた会社ということで散々悩みぬいてもみつからない そこで再度頭をもたげてきたのが瞑想という世界であった 言葉で考えても適職は絶対みつからないから 言葉を越えた瞑想という手法でならわかるかも知れない
そうだ! そもそも本屋にいけばほとんどあらゆる分野に関心のある自分がこんな適職マッチングだとか あるいは自分でフローチャートを書いて自分のしたいことを分析してもわかるわけがない よし瞑想にその解決策を見出すべし と思いはじめた そしてその時四畳半のアパートで瞑想したのが最初でした。
しかしその時は今から考えるととても瞑想にはなっていませんでした。 ただ言えること 主張したいことは 言葉で考えても言葉の渦に巻き込まれ永遠に解答が見いだせないものこそ瞑想に求めるべきという思考である。
あれから随分と時が流れ 30代後半からは、時折り現れる悟りなる現象に着目するようになった
この時おり強烈な直観としてやってくる悟りとは何だろうと思い昔買ってきた本 「密教のすべて」 を見ていた時 なるほどと思いあたった項目がある
それが 真言密教でいうところの五智である もちろん上にあげた本が正統な真言密教を網羅しているとは毛頭思ってもいないし言うつもりもない
ただ 自分は 自分の”現実の”日常生活の組み合わせで、ごくごく自然に この五智という智慧の指標が圧倒的インパクトをもって理解するにいたったのである
よってどこのどんな人が 「この本はどうのこうの・・・よってあなたの考えは間違いです!」 などといったような馬鹿の絵空事をいっても相手にしないことをいっておく
ここにあげた五智の認識は自分のリアル世界での経験によってもたらされた認識だから 覆すことはできないのだ。つまりしいて言えば 「本」 や「言葉」 はどうでもいいのだ
この内面の認識を できれば多くの人にアピールしたい欲求はあるのでこのブログにあげるわけである
まず断っておくが自分は真言宗のお坊さんでも専門家でもありません 以前から1個人の自己開発という視点で密教を研究し 真言密教の住職に何度も密教の話しを聞きにいったりしていますが下にあげる五智は、誰から聞いたものでもなく 自分の経験と読書と瞑想、人生上の様々な見聞を通しての独自の意見であることを言っておきます
ただ少しだけ引用しているのは 密教のすべて という本に書いてある1文ほどにもみたいない語句を引用している しかし自分のもっているこの本に書いてある五智の説明は本当 1つの智慧につき1行程度のものでおそらくかなり密教をつついている人以外は何のことをいっているのかわからないと思い出来る限りわかりやすく説明しようと心がけましたが今度は 長くなると余計なものが含まれてしまいがちになります そういった点を配慮して 自分が思う五智の解釈をまとめてみました
< J-current流五智の解釈 >
法界体性智
この法界体性智は、解脱状態(特異点)以外の人を前提として、現象宇宙を直覚できる人間の最も理想的な有り様を体現するための智慧 (直覚:事象を認識できるダイレクトな感覚)
真言密教は、まず解脱状態(特異点)以外の人が、この世で社会に関わりながら、いかに宇宙の智慧を具現化していくか?という菩薩の視点にはじまることを前提としていると解釈している
つまり一般の叡智を求める人、解脱一歩手前また解脱した人が再びこの社会で人や社会とどう関わっていき どうやって宇宙の叡智を人々に示していくか?という視点に菩薩の生き方、表現世界が展開されると解釈して妥当と思われる。
この智慧は 何もヨガや仏教の僧だけにあらず 会社であったり、サラリーマン、平凡な主婦から浮浪者にいたるまで よくよく観察してみるとこの徳を身につけている人は以外と周りにいたりします そういう人はただこういった教養や用語を知らないだけのこと でもこの徳を理論的に説明するとなると複雑にみえるだけのこと
つまり一般人や身障者を含め叡智を求める人の実践過程の心がけであり理想とする有り様であり実感の中に垣間みる叡智の流れと解釈している
簡単に言えばこの法界体性智は下に示す4つの智慧を総合的に併せ持ちそれを具現化していくプロセス、実践の中に感じ取ることができる智慧であり実感
実際には、さまざまな場面において、人生の酸いも甘いも苦いも経験することで少しずつわかってくるものでもあるし、時に思いもかけない事柄や経験で紐が解けるように悟りが訪れたり現れ方は人それぞれ、ただそこには下に示す四智による深い洞察がともない初めてわかる智慧であり実感
各段階で、その実感を得た時、悟りとともに深淵な宇宙への帰依や智的欲求はさらに高まり この現象世界のより深い認識をさらに高めるのである
それはやがて宇宙全ての事象の根本を認識する智慧まで続くものであり 人の最も根源的な欲であるといえる
この真言密教でいわれるところの法界体性智を 何かの団体に所属していなかれば得られないとか また・・・に限られるといった思考は それを言った時点で法界体性智の認識が無いといわざるおえなくなる つまりこの深淵な生物界宇宙の理法は、知的生物全てに遍く備わっているものであるといえるだろう
真言密教で言われるところの法界体性智とは 言葉に現すと難しいものにみえるが 誰しも人生上 下に示す四智を意識した上での日常で少しずつ悟っていく智慧と認識できる
大円境智
水(鏡)のようにあるがままに姿を映しだすこと
これは 1刹那(そこまで厳密でなくてもいい)、ある時において 自分に知覚できる全ての現象を精密に写しだす智慧
つまり1瞬またはある時に、起きた現象を潜在意識から、思考、観、感情 視界 臭い 音 触覚 口 雰囲気、全てにおいてまず厳密に捉える姿勢
起きた現象をできる限りにおいて、一切偏見なく 何ひとつもらさず、万遍なく捉える智
基本的にこの洞察は理系的な冷静さが必要であるが、その対象は当然物理現象だけに及ばす 何より人の精神現象そのものに向けられる
女性は本能的にこれが発達している
平等性智
水(鏡)は平等に姿を写す そのように潜在意識から、思考 観 視界 臭い 音 触覚 口 雰囲気、全てにおいて得れる情報を今度は 平等にとらえる姿勢
つまり思考や思想も、現象として「平等」にとらえる智慧 つまり「現象」を差別せず 起こってしまった現象として素直に認める智慧 様々な思想さえも現象として平等にとらえる智
いうなれば 現象をすなおに「現象」としてとらえる智慧
これまた女性はこれが発達している
妙観察智
上に基づき 平等にとらえた現象を 同時にその違いをも察知する智慧、これができなければ到底法界体性智にはいたらないといえるだろう
つまり一見同じようにみえる 現象 この場合もちろん 物理現象から内面の潜在意識の現象 さらに思想や思考 つまり潜在意識から、思考、観、感情 視界 臭い 音 触覚 口 雰囲気、観から得られた情報を 現象として平等に捉えつつも その構造や本質の違いを明確に察知する智慧
この智はどちらかというと男性が発達している
成所作智
また水にはすべてのものを育む性質があるように 人には本来全てのものを育む欲がありその智
つまり創造的欲求、例えばどんな悪人にさえこの智が存在することがわかる瞬間がある 美的欲求がそれにあたる また悪人もペットを飼ったりする
また悪人も合理性を求めることはおのずとわかること この智は言葉にして現そうとすると難しいが人は誰でももっている根源的欲求を成り立たせている智
良くも悪くも 自然から生物、個人、社会に関わろうとする時点がこの智の発動を表している 生命の基本的的智慧
これらはみな 本来言葉にできない智慧をむりやり言葉に置き換えています 自分はいつもこれら智慧を立体的に思考して自分の人生に応用しています
もちろんこれらは 真言密教に言われるところの五智なるものの自分流解釈版というものであることをもう一度いっておきます
そういった意味でいうなら 五智というものは人の数だけあることになります しかしそんなことを言いだぜば全ての教えや教訓は人の数だけあることになります
また人によっては このような大雑把なことがなぜに生物宇宙の理法を悟ることに関係あるの?と思われるかも知れません
でもこと自分の人生をかえりみるに 人生哲学の分岐点で最も重要性が高い理念であり明らかに悟りへと導く指標であると思っている
最後に瞑想的世界を語る場合 現在のスピリチュアルブームにおいて 瞑想のための瞑想を論じる部分が多々見受けられるのに憤りを感じずにいられない
現実の自分の人生に応用できてこそ 瞑想の価値に価値が生まれるのである
何でもそうである 勉強の為の勉強で終わったのでは虚しいだけである やはり現実に役にたったとき初めてその内面の哲学に意味が生じるといえるだろう
これぞ日本人のプラグマティズムである!
勉強などというものは、勉強のための勉強になった時点で終わりである。机上の空論で絵空事に至ったことの証明である。どんな思想もそうである 思想のための思想であってはいけないのだ
瞑想的世界も全く同じである。瞑想的世界は教義のためにあるのでない!というのが自分の信念である 最後に”現実世界の実践”で役にたった時にその行動基盤にあった理念が生きるといえるだろう。つまり自分にとっての瞑想は厳然とした動機と実証を基にした世界観にのって行っている
瞑想の動機 もともと自分が瞑想的世界に関心を抱いたのは、高校時代のある体験が発端となった 子供時分から人情や正義感は強かったが、世界観は宇宙戦艦ヤマトに触発された世代ということもあり、それまでは科学的なことにしか関心がなく将来は学者を目指していたが 幸せの絶頂期であるはずの高校時代 ある日突然死を考えさせられる体験をして、その時期たまたま本屋で目にした本に瞑想なるもののことが書かれていた 中でも科学少年であった自分が釘付けになったのが 凝念・静慮・三昧の解説である
( ※この凝念・静慮・三昧についての解説はここでは省略する 関心ある人はネットで調べられたし )
それまで科学少年で現象の明証性は科学しか信じない自分にとって この凝念・静慮・三昧の解説のみが理系的思考から文系的な世界への唯一の突破口となった
それから本屋にいけば東洋哲学系の本を読みあさるようになった また密教やヨーガへの関心は日に日に高まった。
しかしそのころは瞑想と座禅は違っていて瞑想なるものは 密教の厳密な環境下のみで実践されるもので下準備が必要な大掛かりなものという先入観が強く実際瞑想をやりはじめるのは20代半ばに至る。
20代半ばに 初めて正社員として勤務した一応ホワイトカラーの会社員というもので果敢に新規営業で成績を伸ばし ある時期成果報酬をかなりの額得ていた時期もあり 生活には満足していたが もっと幅の広い営業にチャレンジしたくなりその会社を間もなく去った しかしそれからの転職活動がなかなか上手く行かず そもそも前の会社みたいに自分にしっくりくるものが見つからない
その時にもう一度将来を真剣に分析することにして その時分の職安での職業適性検査や適職相談など随分やったけど 全部話しにならないと思った そこで自分で思いや関心事のフローチャートをつくり 細かく自己分析した 確か高校の大学受験時も似たような思いにかられてたが やればやるほど迷妄に突き進んんでいくのである
例えば どの分野に最も関心があるといっても 大学でいえばほとんどの学部全てに関心があるし興味がある この時も職安に通いつくづく思ったことは 自分が興味を抱く分野はどうしても これ!といいきれないのである。 おそらく似たような思いに駆られた人は多いのではないだろうか? 人間30以上にもなれば否応無しに得意分野とそうでないものは以前その人の「経験や実績」が問われ 自ずと大体の分野が決まってくるものだが でもここで考えてもらいたいのは それは 社会がそうでないと認めないからという打算の上での話しじゃないですか? という点である もし何もかもリセットできるとして 「あなたが最もやっていきたい分野は何ですか?」 と言われた場合と現代のリアル世界の会社の面接では あなたは全く違う自分を演出するでしょう そんなことは分析せずともわかることである
例えば今の自分が 過去を全てをリセットして教育は社会が全てやるから 本当にあなたがやっていきたい職は何ですか?と言われたなら迷わず答えるのは大学の理工学部か生物学の研究 また人文系では 何の迷いもなく高野山専修学校にいくだろうと思う それが叶わなくても今の自分が負っているリアル世界での社会的責任がなければ即修験道行者の道にいくだろうと思う
しかし昔の完全に平和ボケにバブルの余韻が残っていた当時 そんな極端な発想は全くなく サラリーマンとして可能な限り自分に向いた会社ということで散々悩みぬいてもみつからない そこで再度頭をもたげてきたのが瞑想という世界であった 言葉で考えても適職は絶対みつからないから 言葉を越えた瞑想という手法でならわかるかも知れない
そうだ! そもそも本屋にいけばほとんどあらゆる分野に関心のある自分がこんな適職マッチングだとか あるいは自分でフローチャートを書いて自分のしたいことを分析してもわかるわけがない よし瞑想にその解決策を見出すべし と思いはじめた そしてその時四畳半のアパートで瞑想したのが最初でした。
しかしその時は今から考えるととても瞑想にはなっていませんでした。 ただ言えること 主張したいことは 言葉で考えても言葉の渦に巻き込まれ永遠に解答が見いだせないものこそ瞑想に求めるべきという思考である。
あれから随分と時が流れ 30代後半からは、時折り現れる悟りなる現象に着目するようになった
この時おり強烈な直観としてやってくる悟りとは何だろうと思い昔買ってきた本 「密教のすべて」 を見ていた時 なるほどと思いあたった項目がある
それが 真言密教でいうところの五智である もちろん上にあげた本が正統な真言密教を網羅しているとは毛頭思ってもいないし言うつもりもない
ただ 自分は 自分の”現実の”日常生活の組み合わせで、ごくごく自然に この五智という智慧の指標が圧倒的インパクトをもって理解するにいたったのである
よってどこのどんな人が 「この本はどうのこうの・・・よってあなたの考えは間違いです!」 などといったような馬鹿の絵空事をいっても相手にしないことをいっておく
ここにあげた五智の認識は自分のリアル世界での経験によってもたらされた認識だから 覆すことはできないのだ。つまりしいて言えば 「本」 や「言葉」 はどうでもいいのだ
この内面の認識を できれば多くの人にアピールしたい欲求はあるのでこのブログにあげるわけである
まず断っておくが自分は真言宗のお坊さんでも専門家でもありません 以前から1個人の自己開発という視点で密教を研究し 真言密教の住職に何度も密教の話しを聞きにいったりしていますが下にあげる五智は、誰から聞いたものでもなく 自分の経験と読書と瞑想、人生上の様々な見聞を通しての独自の意見であることを言っておきます
ただ少しだけ引用しているのは 密教のすべて という本に書いてある1文ほどにもみたいない語句を引用している しかし自分のもっているこの本に書いてある五智の説明は本当 1つの智慧につき1行程度のものでおそらくかなり密教をつついている人以外は何のことをいっているのかわからないと思い出来る限りわかりやすく説明しようと心がけましたが今度は 長くなると余計なものが含まれてしまいがちになります そういった点を配慮して 自分が思う五智の解釈をまとめてみました
< J-current流五智の解釈 >
法界体性智
この法界体性智は、解脱状態(特異点)以外の人を前提として、現象宇宙を直覚できる人間の最も理想的な有り様を体現するための智慧 (直覚:事象を認識できるダイレクトな感覚)
真言密教は、まず解脱状態(特異点)以外の人が、この世で社会に関わりながら、いかに宇宙の智慧を具現化していくか?という菩薩の視点にはじまることを前提としていると解釈している
つまり一般の叡智を求める人、解脱一歩手前また解脱した人が再びこの社会で人や社会とどう関わっていき どうやって宇宙の叡智を人々に示していくか?という視点に菩薩の生き方、表現世界が展開されると解釈して妥当と思われる。
この智慧は 何もヨガや仏教の僧だけにあらず 会社であったり、サラリーマン、平凡な主婦から浮浪者にいたるまで よくよく観察してみるとこの徳を身につけている人は以外と周りにいたりします そういう人はただこういった教養や用語を知らないだけのこと でもこの徳を理論的に説明するとなると複雑にみえるだけのこと
つまり一般人や身障者を含め叡智を求める人の実践過程の心がけであり理想とする有り様であり実感の中に垣間みる叡智の流れと解釈している
簡単に言えばこの法界体性智は下に示す4つの智慧を総合的に併せ持ちそれを具現化していくプロセス、実践の中に感じ取ることができる智慧であり実感
実際には、さまざまな場面において、人生の酸いも甘いも苦いも経験することで少しずつわかってくるものでもあるし、時に思いもかけない事柄や経験で紐が解けるように悟りが訪れたり現れ方は人それぞれ、ただそこには下に示す四智による深い洞察がともない初めてわかる智慧であり実感
各段階で、その実感を得た時、悟りとともに深淵な宇宙への帰依や智的欲求はさらに高まり この現象世界のより深い認識をさらに高めるのである
それはやがて宇宙全ての事象の根本を認識する智慧まで続くものであり 人の最も根源的な欲であるといえる
この真言密教でいわれるところの法界体性智を 何かの団体に所属していなかれば得られないとか また・・・に限られるといった思考は それを言った時点で法界体性智の認識が無いといわざるおえなくなる つまりこの深淵な生物界宇宙の理法は、知的生物全てに遍く備わっているものであるといえるだろう
真言密教で言われるところの法界体性智とは 言葉に現すと難しいものにみえるが 誰しも人生上 下に示す四智を意識した上での日常で少しずつ悟っていく智慧と認識できる
大円境智
水(鏡)のようにあるがままに姿を映しだすこと
これは 1刹那(そこまで厳密でなくてもいい)、ある時において 自分に知覚できる全ての現象を精密に写しだす智慧
つまり1瞬またはある時に、起きた現象を潜在意識から、思考、観、感情 視界 臭い 音 触覚 口 雰囲気、全てにおいてまず厳密に捉える姿勢
起きた現象をできる限りにおいて、一切偏見なく 何ひとつもらさず、万遍なく捉える智
基本的にこの洞察は理系的な冷静さが必要であるが、その対象は当然物理現象だけに及ばす 何より人の精神現象そのものに向けられる
女性は本能的にこれが発達している
平等性智
水(鏡)は平等に姿を写す そのように潜在意識から、思考 観 視界 臭い 音 触覚 口 雰囲気、全てにおいて得れる情報を今度は 平等にとらえる姿勢
つまり思考や思想も、現象として「平等」にとらえる智慧 つまり「現象」を差別せず 起こってしまった現象として素直に認める智慧 様々な思想さえも現象として平等にとらえる智
いうなれば 現象をすなおに「現象」としてとらえる智慧
これまた女性はこれが発達している
妙観察智
上に基づき 平等にとらえた現象を 同時にその違いをも察知する智慧、これができなければ到底法界体性智にはいたらないといえるだろう
つまり一見同じようにみえる 現象 この場合もちろん 物理現象から内面の潜在意識の現象 さらに思想や思考 つまり潜在意識から、思考、観、感情 視界 臭い 音 触覚 口 雰囲気、観から得られた情報を 現象として平等に捉えつつも その構造や本質の違いを明確に察知する智慧
この智はどちらかというと男性が発達している
成所作智
また水にはすべてのものを育む性質があるように 人には本来全てのものを育む欲がありその智
つまり創造的欲求、例えばどんな悪人にさえこの智が存在することがわかる瞬間がある 美的欲求がそれにあたる また悪人もペットを飼ったりする
また悪人も合理性を求めることはおのずとわかること この智は言葉にして現そうとすると難しいが人は誰でももっている根源的欲求を成り立たせている智
良くも悪くも 自然から生物、個人、社会に関わろうとする時点がこの智の発動を表している 生命の基本的的智慧
これらはみな 本来言葉にできない智慧をむりやり言葉に置き換えています 自分はいつもこれら智慧を立体的に思考して自分の人生に応用しています
もちろんこれらは 真言密教に言われるところの五智なるものの自分流解釈版というものであることをもう一度いっておきます
そういった意味でいうなら 五智というものは人の数だけあることになります しかしそんなことを言いだぜば全ての教えや教訓は人の数だけあることになります
また人によっては このような大雑把なことがなぜに生物宇宙の理法を悟ることに関係あるの?と思われるかも知れません
でもこと自分の人生をかえりみるに 人生哲学の分岐点で最も重要性が高い理念であり明らかに悟りへと導く指標であると思っている
最後に瞑想的世界を語る場合 現在のスピリチュアルブームにおいて 瞑想のための瞑想を論じる部分が多々見受けられるのに憤りを感じずにいられない
現実の自分の人生に応用できてこそ 瞑想の価値に価値が生まれるのである
何でもそうである 勉強の為の勉強で終わったのでは虚しいだけである やはり現実に役にたったとき初めてその内面の哲学に意味が生じるといえるだろう
これぞ日本人のプラグマティズムである!
