Little Buddha

・・・①
 この動画は、誰もが知るところのお釈迦様が”悟り”ではなく 解脱 をえる瞬間に向かっての動画である
これをみて大方の人は 釈迦が悟る瞬間と表現すると思うがそれは、言葉のあやであり厳密には間違いだと考える。

もちろんこれは所詮映画であるが莫大な総興費とインドやチベット、南伝仏教(?おそらく)などの世界で名高い高僧から見識者を動員してつくられ、1994年に公開された注目の仏教映画である Little Buddha - Full Movie

①で描いている最初は、有相三昧の段階であると予測がつく まぁ映画ではすこぶる物語風に描写されているが実際問題は、

・まず、真言密教でいうところの四魔のうちの内面の煩悩魔との闘いである まぁ簡単にいってしまえば強欲の本体との闘いといえる ではどうこれに太刀打ちできたのか? 当然それはその本質の実態の解明であり智慧のみがそれを解き明かすことができるわけだ つまり天台密教の修行法にもあるように美女の姿も生々流転する現象の1部で1時期の幻であり幻想だということをまずは智慧が理解し、煩悩が醜いものでしかなく幻想だと実感し、精神にこびりついている鞘から離脱してその素因を消滅させる過程だといえる
つまり智慧がまず理解して意志は行動に移すということである


・次は自分の内面の天魔(天邪鬼)との闘いで おそらく人生で最も強敵でほとんどの人が克服できない天邪鬼を司っている本体というか素因との闘いである
最も智慧をフル回転させなければ太刀打ちできない強敵だ、自分は現在これに打ち勝つことができない ただいえることは、もしこれにうち勝つことができたとしたらそれは間違いなく智慧のみであるといえるのは確かだ 瞑想はこの段階において 人によっても違うがものすごいイマジネーションがおそってくるものだ。
 映画では 魔王の軍隊で表現しているが 自分の場合は、厳密にいえばあらゆる恐怖がイマジネーションとなりおそってくる。
 瞑想しているときの心の本体である自分の意志は いうなれば国も憲法も法律もない また仲間もいない超孤独な世界である つまり誰も助けてくれる人もいないし また助けとなる知識もないのだ そう!ここがいつも痛切に感じるところである 瞑想を実践している皆さんはどうだろうか?そう思いませんか?

 つまりありとあらゆる保証がないのである 大海原にほっぽり出された子供に似ている この状態で自分のさらに深層に潜んでいる何かが次から次へと恐怖を送り出してくる
 場合により列車の下でひきづりこまれる瞬間だったり また巨大な電気ノコギリが迫ってきたりあるいは恐竜みたいな怪獣に噛み砕かれる瞬間に引きつけられたり・・・
 なぜかそういった恐怖に自分からむかっているから不思議なものだが そうなるのである ここがおかしなとこで わずかにわかるのは自分からそういったものに突撃していくのである。

 厳密にいうとこの現象は、自分の深層意識の中の何かが作りだしているといううっすらとした予感だけがある。だがそれが何かはわからない
また次から次へと沸き起こるイマジネーションにより、この領域は、ほんのちょっとした気の緩みが数時間に渡る瞑想を1瞬で崩壊させてしまうことなど毎度のことだ。

 映画では魔王の軍隊が降らせた矢を、イメージの力で桜に変えているが 所詮映画というのは脇においておいて 確かにこの領域はイメージだけが勝負という部分がある。
 イメージのフットワークというか柔軟性のみが勝負だ それは 本能の意志 でも書いた、昔よく幽体離脱らしき世界を体験している時もそうだが イメージで物を創造したり壁を通りぬけたり 空を飛ぶのもイメージ力であった。
 そういった意念が決め手になると思われる。しかしこの天邪鬼のパワーは凄く 残念かなこれを操るだけの意念は期待できない この領域の葛藤は、実は瞑想中だけではなく、一旦この領域を体験してしまうと就寝時にも現れるみたいである。おそらく平安と安らぎの中で培われる智慧のみが、この領域を通過できるイメージのコントロール力を得れるのであろう。
 まとめると 天魔との闘いは、まず!それが天魔だと認識できる智慧と、意念をコントロールし天魔(天邪鬼)を退散させる智慧である、つまりここでもまた智慧が決め手になる。


・最後は一見四魔の1つ身魔との闘いと思われがちだが これは間違いなく現在のスピリチュアル用語で誰もが知ることとなった、最高度のハイヤーセルフとの闘いといえる もちろんこの部分こそが釈迦の偉大な点だといえる 有相三昧の最後の砦である。
 最もレベルの高いハイヤーセルフである 映画の演出は別にして おそらく言うことなすこと全て理にかなっていて、おそらくこの宇宙で自分にとっての最高度の守護神である、ハイヤーセルフ様を崩壊させる闘いである。 これは確かに到底一般人ができる芸当ではないと思えるわけだ、
 この1点において釈迦は、その当時の他のサドゥーや聖人から飛び抜け 森羅万象を司る事象に溶け込むわけである つまり半解脱である。

 その時 その最高度のハイヤーセルフである自分の守護神に触地印とともに
「あんた(自分)は幻だ、地(生々流転)がそれを知っている」 といってハイヤーセルフを崩壊させるのである 現実そういうことである それはつまり本当の自分の死である この世の肉体の死より先に霊界での自分を死させるわけだ、これはあえてわかりやすく極端な表現を使ったが
ハイヤーセルフの消滅であり 無想三昧の突入である
ここでもまた決め手になるのは智慧である


 さらに詳しくいえばこの無想三昧だけでは、完全な解脱とはならず 最後に転変という現象がまっている この転変だけは 体験者本人の努力や能力が及ぶ範囲ではないため 自我が存在しない状態 つまり 自然界を司取る自然意志が釈迦の肉体も司る状態が続くわけだが 大方の聖典なり言い伝えではこの後にブラフマンがやってきて転変をおこし最終解脱に至るわけである。

 ここにざっと解脱に至るプロセスをあげてきたが、最後の最後の転変以外は、その決め手は智慧である 思いや行動は智慧の指令で行われる結果である。
実はこの点がいいたかったのである。1にも2にも高度な認識によって得れる智慧があり その智慧の指図で思い行動するということである。

 自分がいつも面白いと思うのは、自分の大本源のハイヤーセルフにむかって触知印を示し 「あなたは錯覚である消えなさい」 という部分でなぜそのような発想をしたのか?
である どうだろうか ここに1つのポイントがあるのではないだろうか?
 現代は、関心がある人なら誰でもこの最後の場面を知っているから それが当たり前に思われるが 当時のサドゥやヨガの聖者は、瞑想の方法論で誰もそんなこと夢にも思っていない度肝をぬく発想をしたのである わかるだろうか? 多分その当時そんな理念はとても許されることではなかったと思うわけである。

 でも釈迦は、ヒンズーの神をも恐れぬ理念を大胆にもやってのけたのであり それもおそらく絶対的自信の元やってのけたのである。
 ここが一番のポイントで 釈迦にしてみればあらかじめわかっていた予感していたからこそできたのではないだろうか? 今まで自分の中に様々な概念を形造ってきた本体であるこの自分こそが最後の敵であると では、技術的具体論でいえば それを知らしめたのは、どういった存在であったか? それは決してガイドとかハイヤーセルフといった人的存在でもなければ神と言われるような人格をもった存在ではないと予測するまでだ、ましてその当時師事されたヨガの聖者や教団でもないだろうと思われる

 自分が思うに それこそは 精霊とか妖精といった存在である。

 もう忘れてしまったが 1年程前だろうか?ネットで外国のどっかの大学の教授か何かが 子供時代の釈迦は空想をするのが癖でいつも城の外の農夫の様子や木々の移り変わりを観察して空想していた それが悟りのきっかけになったとは報じていた。
 つまり 牛は糞をして その糞が肥やしとなり草や植物が育ち その植物が今度牛に食べられるという具合に自然界の地や風、水といった環境も含めた動植物の流転の観察が、後の輪廻転生論を生み出す元となったという記事を目にしたことがある。

 自分は、先のブログ 精霊 妖精 で 瞑想をやれば比較的早い段階で察知可能であるこれら精霊や妖精といったものを釈迦は充分遊びつくしていたと思っている。
 言葉は悪いがそれは、言い回しの問題で 森林で瞑想するとそれはよ~くわかるものだ ここでわかるだろう 釈迦が瞑想修行をしたほとんどが森林だという事実がそれを示している、しかも 悟りを得たといわれる場所は、まさに林のほとりの菩提樹を背にしてである。

 森林は、まさしく瞑想するのにもってこいの場所なのだ しかも精霊とか妖精の領域を非常に察知しやすい場所だ したがって別に遊ぶ遊ばないではなく 空想癖の釈迦にしてみれば森林での瞑想でこれらと触れ合わないはずがないし もちろんそのころ禅があったわけではないのだ 誰も瞑想で浮かび上がってくるイメージは魔境だから避けろなどという教えはない時代である。自分が思うにそんなものはどっかのアホが後に政治統制や組織統治論と瞑想世界をごちゃ混ぜにしたに過ぎないと思っている 多分中国あたりでそうなったのであろう。

 瞑想を実践しているものなら誰もがわかることだが、経典やお経などという左脳的産物が役にたつのは、瞑想の初期ステップの取っ掛かりぐらいで、数時間に渡る瞑想では、直観と智慧だけがたよりである。

 元へ戻り、かといって瞑想でも場合によりけりで最後のプロセスでは、精霊や妖精と遊んでいては 一発で天魔にやられてしまうため プロセスによりけりといえるだろう。
おそらく釈迦は、土や森林の妖精たちと戯れ 心を開放することでハイヤーセルフさえ超えた世界の予感を感じとっていたのかも知れない

 実際例えば 土の妖精は、例えば幽体離脱らしき世界に飛び立つ瞬間や夢に入る瞬間、また朝目覚める瞬間に介在してその役割をになっている。 自分は昔、朝目が覚めた瞬間、眠気と目覚めが交互に入れ替わって訪れた時に 非常におかしな体験をしたことがある なんといおうか一瞬目覚めのタイミングを間違えた・・といっても意図してそうなったのではなく、自然にそうなたのであるが 自分が地面そのものになっていたことがあった。この感覚は もう到底言葉で現せるようなものではなく ピタッ!と自分とは地そのものである!といえる感覚である つまり自分の体が地面なのだ。その後わずかに働く意念を使い肉体に戻ったが、その時の地面感覚とは完全な不動であった。
 また森林の妖精はまるで気まぐれな小さな竜巻みたいな存在であり 森林に模様を描くように飛び跳ね動き回っているイメージとして現れてくる その他おそらく宇宙にうごめいている 物質的基盤をもたない独立した精霊的存在も森林や野原ではその存在度が高まるのである。こういった精霊や妖精のような存在の連携プレイは、当然物質界の環境を含めた動植物の生々流転の裏方をになっていると思われる。

 釈迦は多分最後のハイヤーセルフとの1戦でこの自然霊達の連携プレイを示したと思うのである。そしてハイヤーセルフに「あなたも究極的には、この自然霊達の連携プレイあっての存在ですよ」 と諭した つまり自分の自我を自然霊の媒介領域に埋没させたのではないだろうか?
 つまり自分の自我という因果律からなる構成物をその基盤である自然霊の状態に崩壊させたといえるだろう 自分にはそうとしか考えられないのである

 例えばマインクラフトという3Dのゲームをやってもわかると思うが、いろんなmodでさまざまなディメンション(世界)がある 例えばSFもあれば色鮮やかな世界や氷の世界など マイクラをやったことのある人ならその意味するところがわかると思うが 結局最後にはこれらのディメンションより バニラの森林や野原が最も好ましいと思わないだろうか?
 まぁ黄昏の森MODは別にしてね(^_^;) 多分人にとって森とは根源的な故郷なのだと思うわけださらに昔から日本の神社は森の中にあることから考えても 何かしら霊的なものを覚醒させる最高の環境なのではないだろうか?

 もちろんこのブログで述べてきたことは、自分の独創的意見だが自分は過去の経験上おそらくそうとしかおもえないのである。 もうちょっと本音を言わせてもらうなら

(^^/ これはどうかひとつの詩としてとらえてほしい
 「瞑想者たる者 根源世界を目指すなら文字を破り捨て、言葉の世界を捨て 森林の感覚をつかめ」 と 「森林の臭い 風 音 光に向かえ」 ということである

 ※間違っても熊情報だけはチェックして用心したうえでの話しだ その他危険回避は自己責任でやるのは言うまでもないことは言っておく