自分が最も得意な領域は哲学だ、それは高校時代からほぼ毎日日常の出来事から政治や社会の諸問題を、我々国民に何が足りないがために起こった問題といえるのかを吟味したりするが、そうしなくてもそれは日常茶飯事頭を駆け巡り哲学的観点から思考するのが癖である。だからといって何か哲学の社会的資格をもっているわけではない
しかし哲学の歴史は、高校時代から大学にかけて一通り何回も復習したものだ、その方面のスペシャリストの道に進まなかったのは、当時哲学なんぞ勉強しても将来性は全く無いと様々な人に言われたため あくまで趣味の領域で本を読み、思索にふけるのが癖である 例えばそんなことやっても何の利がなくても フッサールの現象学などは何回も読み直したものだ、中世哲学、近世哲学 特に観念論 認識論の哲学はよく自分なりに吟味したものである だから「科学」というものがどういった経過を辿り姿を表したかは、だいたいのことが読みとれる もちろん科学だけではなく 経済学という学問も哲学史というラインからみるとどのあたりからどういった経過を経てそれが出現してきたのか?
またこれら哲学の概念が 政治という舞台にいかに持ち込まれてきたか?だいたいのイメージは残っている。
哲学史という刑事上学的観点から政治を紐解くと、社会で問題となっている検討課題は実にすんなり解決できるのにな~ と思う瞬間もあるものだ、もちろんそれは実際に行動して現場を調査検討が必要になるのは言うに及ばずだが、やはり哲学とは素晴らしいと思うのである。哲学史を知らないがために重要な政治的決断を間違えたり、非常におろかな思考に囚われたり また簡単に悪質な宗教に盲目的になったりと・・・ 現在哲学という学問を低く見がちな社会姿勢は、現在の社会の歪みをみれば明らかに愚かでバカげている おそらく哲学を低くみる態度は、その低くみた分かならずしっぺ返しがまっているというか 現実にそうなっている。
昔テレビで細木数子が「日本人って物事を哲学的に解釈して分析することが苦手な側面がある」
というふうな事をいっていたが、確かに我々日本人の良い点でもあり悪い点でもあることの1つに
「理屈を嫌う」という習性が強い、それは「言い訳するのは恥」という文化からきているが、ここで1つ熟考してもらいたい! いつも海外に理屈でまけて現実でまけてきたと側面が多いにあるのではないだろうか?
もちろんこの哲学の飽くなき挑戦は、自分のもう一方の趣味である 東洋の瞑想的世界の探求にも密接にからみあい、以前なかなか理解できなかった概念が理解できるものである
現在商業中心の社会で哲学者というものに職はない あるのは超難関の大学教授くらいであろう しかし実社会の産業経験の少ない大学教授に何がわかるだろうか?
しかし自分みたいな転職歴が多い人間こそ その社会の沈黙の諸問題をupし大学教授,博士レベルに立ち上がってもらい 真の創造主義哲学で社会をよりよくすることに関心をもってもらいたいのである
民主党政権発足以来 いゃ厳密には小泉政権の頃から、ネットの普及により少しずつ 日本人若者相にも政治的関心というのが高まって、現在は投票にいくいかないは別にしても実質的関心度という点ではかなりのものがあるのではないかと思わせる
そして政治に関心をもった若者は 政治言論空間の中央やメディアが話題とするカテゴライズされたアジェンダに話題が沸騰しその周辺部だけが問題提示され話題を呼ぶ構図になる 確かにそのアジェンダに関していえば、 近頃は昔みたいに気がつくといつのまにやら適当に決められたり すぐ煙にまいておわるということは少なくなってきたといえるかも知れない それはリベラル 保守同等にいえると思われる しかしこのメディアやネットでカテゴライズされた社会問題に的を絞るがために まんまともっとも身近にある常識に潜む本質的かつ現実的な問題は誰も見向きもしないのである
しかしもはや民衆が望んでいるのは、ほんの一部の中央の人達の”業界癖”的手法でかたがつくような段階にあるのではないと自分はみている
つまり安保法制であろうが原発問題であろうが、確かに我々に関連しているとはいうものの それを決定している意志決定機関そのものへの疑問というものも含まれているといえる
どう表現していいかなかなか言葉が難しいが、政治モード、経済金融モード、宗教モード、共産主義者モード、反日モード、親中派モード、親米派モード、 コーポレートモード、まだあるが、こういった心的アルゴリズムをその内に秘めそれを前提に思考し実際の”現場”の心情や実質は、ほどほどの「つぎはぎ」で満足させるという 日本だけでなく今まで人類がずっと辿ってきた 「結果論としての利益の振り分け」 とでもいうべきだろうか? 最終責任を伴わない物事の構築に怒りさえ覚えるのである
抽象的な表現をしたが例えば上に表した”カテゴライズされたアジェンダ”はもうすでにその大前提にある様々な潜在下している社会の対立因子を"決定的"に無視してすすめられるわけである 誰でも、そこに触れるのはタブーというよりそんなところまでとても手が回せないのが現状という領域が"確実に"存在するものである
このような沈黙の諸問題は、今までは「社会とはそういうものだ」で済んできたがもはや切実な人間性阻害の領域に踏み込んでいることは誰もが!誰もが実感していることである
この「社会の潜在下にある2次的対立因子と沈黙の矛盾」 こそは、実は最も検討されるべき本質を含んでいるといえよう
政治的解決が必要となり社会の表舞台にでている事柄以外に 水面下に潜んでいる 2次的な誰もが思考停止している部分にこそスポットを当てたいのである
なぜならまだテレビもなかった時代に組み立てられた時代錯誤のガラクタだらけの社会規範の犠牲者をできるなら救いたいと思うからだ
それに現在の世の中確かにテクノロジーは目覚ましく進歩しているが 真の創造性という観点では時代遅れも甚だしいと思うのである
それはネット上の変化とか現在の最先端テクノロジーを言うのではない!リアルな空間において人間は本来まだまだ多様性があり一人一人多様な創造性があると言えるのではないだろうか?
以下にこの社会の2次的対立因子と沈黙の諸問題をあげる
・営業vs製造
・思考型vs自然感覚型
・理系型人間vs文系型
・夜勤
・地方過疎化の真実
・会社の勤務vs国・県・町の行事
・気にいった趣味や商品の存在の消失
・多摩川の浮浪者やネットカフェの住民
・サラリーマンと自営業者の常識の違い
まずは自分が最も閉ざされた弊害に思っていた営業と製造の確執から取り上げよう
代表的問題をあげれば まず”今日”でもそこら中にあったであろうことが想像できるのが、「会社における営業と業務、管理と生産」といえるだろう
とくに最も訴えたい部分は、工場などの生産に携わる工場の部長レベルと営業との葛藤だ、自分は過去たくさんの知人からこのやり切れなさの話しを聞いている
この問題は特に営業マンにとっては、実は、毎回会社を辞めるかどうかの決断までいくことがすごく多いということである
そう!もちろんこれは自分だけでないはずだ、もし男性なら自分自身あるいは友人知人などから、営業の誰それと口論した! あるいは製造部長の石頭の拘りで計画が狂ってしまった!と友人知人の営業マンから聞いたりしたことは、誰しもあるのではないだろうか?
自分の場合 過去の人生で営業社員として勤務して 最も多かったのがこれである こういうと取り方によっては、「それは営業の努力不足」と簡単にとられがちだが、自分は、この特に工場に多いと思われる 営業と製造の確執は、仕事が辛くなる最もでかい要因の1つではないだろうかと思うのである。製造業の営業経験者なら誰だって経験する最もでかい要因である!
自分は過去この確執で会社を辞めた人を何人も知っているし、また現在も!このての悩みを友人から3日に1度は聞かされる。
例えば、「社会は厳しい」 というのは常識的言葉だが この友人にとってのこの文句は そのほとんどがこの「営業と製造の確執」というのが現状といえる
営業の方をもつとか製造者の雇用を厳しくしろとか そんなレベルの話しでないことは最後まで読めばわかるだろう。
自分自身も営業として過去呆れ返るほどのバカバカしい出来事が多々あった 以下にそれをあげるとする
・食品産業系の工場に営業に行った時 そこの製造管理部の部長にアプローチするためにアポをとり現場に足を運び 名刺をみせたとき 「あんたらみたいなネクタイしめたカッコつけた人がさ こんなとこ何しにきたの・・・・・ まぁ真面目にやってもらっても自分らみたいなのは、ただ機械を動かすだけが仕事だからね~ 食って行ければいいというだけだからねぇ そんなねぇ かっこいいことには全然関心は無いんだよ」
といって、まるでネズミ男みたいな その製造部長は立ち去っていったことがあった 多分営業経験者ならこれと似た場面は経験しているはずである
・またある零細企業で機械の販売営業を担当していた時 その年配の技術者はまれにみる卑屈な性格で気分次第で、どんな案件もよせつけないといったような場面を何度も経験している 後にこの会社は倒産したが、半分はその人の卑屈さが招いたともいえる
・また笑ってしまったのは、過去2週間ほどしかいなかったが地元のある工場の朝の朝礼で 営業と製造部長がミーティングや報告をするのだが その時の会話がおもしろい
営業部長が現在の先月の売上を報告し、「今後の明るい展望が開けるかもしれないので益々・・・という部品を多く生産してほしい 我々も頑張ります」 というと
製造部長が 「さて今日の計画は回転寿司直行ですか?自分らだけ外で お遊びがてらに仕事とは 我々は奴隷じゃないんだからもうちょっと・・・・」
すると営業部長が 「おいおい いくらなんでも今のは聞き捨てならんぞ ・・・・・ 」 となり後は営業と製造の口論が続いたわけだ
とくにこの「自分達だけ外をお散歩で・・・」 という具合に外に出て行くことを羨ましく妬む工場労働者は最も多い
・笑ってしまうが 地方の工場とはおそらく今も似たりよったりではないだろうか?
最近でいえば、一度も会社の不平をいわなかった年配のまじめな工場委託業の知人がついに一言もらした言葉は 「業務の連中がロボットを入れて職を奪いあがった!」
必ず技術や製造というのは、上のようなすざまじい卑屈なまでの言葉を発するもので 実はこれは当たり前で なるべくしてそうなっているのである。
多分こういったことは コンプライアンスで徹底管理された都会の大手IT企業や名高い大手企業以外(IT業界はまた別の苦しみがある) 日常茶飯事みられる光景ではなかろうか?ここで我々日本人はとくに 家に帰宅するころには、「会社とはそんなもんだから仕方ない」 と自分をさとし 思考を停止して 後はせいぜい労働組合でうっぷんをはらすぐらいであろう。しかし自分はあえていいたい ここで思考をストップするな と! また労働組合などという仕掛けられた罠の中に入るのは言語同断である
この当たりでいっておくべきは、自分は何も共産党や社会党などという お決まりの甚だバカらしい芝居の猿マネをしたいわけではないのである 自分が見ているのは、そんな安っぽいことではなく もっともっと根源的なものである 最も根源にある思想は「結果論的継ぎ接ぎ(つぎはぎ)社会から真の創造主義社会へ」ということだ
しかし最初からこれは無理である まずは徹底した思い込みの排除から行う必要があるだろう
続きは 次回の「区分け主義」へ
しかし哲学の歴史は、高校時代から大学にかけて一通り何回も復習したものだ、その方面のスペシャリストの道に進まなかったのは、当時哲学なんぞ勉強しても将来性は全く無いと様々な人に言われたため あくまで趣味の領域で本を読み、思索にふけるのが癖である 例えばそんなことやっても何の利がなくても フッサールの現象学などは何回も読み直したものだ、中世哲学、近世哲学 特に観念論 認識論の哲学はよく自分なりに吟味したものである だから「科学」というものがどういった経過を辿り姿を表したかは、だいたいのことが読みとれる もちろん科学だけではなく 経済学という学問も哲学史というラインからみるとどのあたりからどういった経過を経てそれが出現してきたのか?
またこれら哲学の概念が 政治という舞台にいかに持ち込まれてきたか?だいたいのイメージは残っている。
哲学史という刑事上学的観点から政治を紐解くと、社会で問題となっている検討課題は実にすんなり解決できるのにな~ と思う瞬間もあるものだ、もちろんそれは実際に行動して現場を調査検討が必要になるのは言うに及ばずだが、やはり哲学とは素晴らしいと思うのである。哲学史を知らないがために重要な政治的決断を間違えたり、非常におろかな思考に囚われたり また簡単に悪質な宗教に盲目的になったりと・・・ 現在哲学という学問を低く見がちな社会姿勢は、現在の社会の歪みをみれば明らかに愚かでバカげている おそらく哲学を低くみる態度は、その低くみた分かならずしっぺ返しがまっているというか 現実にそうなっている。
昔テレビで細木数子が「日本人って物事を哲学的に解釈して分析することが苦手な側面がある」
というふうな事をいっていたが、確かに我々日本人の良い点でもあり悪い点でもあることの1つに
「理屈を嫌う」という習性が強い、それは「言い訳するのは恥」という文化からきているが、ここで1つ熟考してもらいたい! いつも海外に理屈でまけて現実でまけてきたと側面が多いにあるのではないだろうか?
もちろんこの哲学の飽くなき挑戦は、自分のもう一方の趣味である 東洋の瞑想的世界の探求にも密接にからみあい、以前なかなか理解できなかった概念が理解できるものである
現在商業中心の社会で哲学者というものに職はない あるのは超難関の大学教授くらいであろう しかし実社会の産業経験の少ない大学教授に何がわかるだろうか?
しかし自分みたいな転職歴が多い人間こそ その社会の沈黙の諸問題をupし大学教授,博士レベルに立ち上がってもらい 真の創造主義哲学で社会をよりよくすることに関心をもってもらいたいのである
民主党政権発足以来 いゃ厳密には小泉政権の頃から、ネットの普及により少しずつ 日本人若者相にも政治的関心というのが高まって、現在は投票にいくいかないは別にしても実質的関心度という点ではかなりのものがあるのではないかと思わせる
そして政治に関心をもった若者は 政治言論空間の中央やメディアが話題とするカテゴライズされたアジェンダに話題が沸騰しその周辺部だけが問題提示され話題を呼ぶ構図になる 確かにそのアジェンダに関していえば、 近頃は昔みたいに気がつくといつのまにやら適当に決められたり すぐ煙にまいておわるということは少なくなってきたといえるかも知れない それはリベラル 保守同等にいえると思われる しかしこのメディアやネットでカテゴライズされた社会問題に的を絞るがために まんまともっとも身近にある常識に潜む本質的かつ現実的な問題は誰も見向きもしないのである
しかしもはや民衆が望んでいるのは、ほんの一部の中央の人達の”業界癖”的手法でかたがつくような段階にあるのではないと自分はみている
つまり安保法制であろうが原発問題であろうが、確かに我々に関連しているとはいうものの それを決定している意志決定機関そのものへの疑問というものも含まれているといえる
どう表現していいかなかなか言葉が難しいが、政治モード、経済金融モード、宗教モード、共産主義者モード、反日モード、親中派モード、親米派モード、 コーポレートモード、まだあるが、こういった心的アルゴリズムをその内に秘めそれを前提に思考し実際の”現場”の心情や実質は、ほどほどの「つぎはぎ」で満足させるという 日本だけでなく今まで人類がずっと辿ってきた 「結果論としての利益の振り分け」 とでもいうべきだろうか? 最終責任を伴わない物事の構築に怒りさえ覚えるのである
抽象的な表現をしたが例えば上に表した”カテゴライズされたアジェンダ”はもうすでにその大前提にある様々な潜在下している社会の対立因子を"決定的"に無視してすすめられるわけである 誰でも、そこに触れるのはタブーというよりそんなところまでとても手が回せないのが現状という領域が"確実に"存在するものである
このような沈黙の諸問題は、今までは「社会とはそういうものだ」で済んできたがもはや切実な人間性阻害の領域に踏み込んでいることは誰もが!誰もが実感していることである
この「社会の潜在下にある2次的対立因子と沈黙の矛盾」 こそは、実は最も検討されるべき本質を含んでいるといえよう
政治的解決が必要となり社会の表舞台にでている事柄以外に 水面下に潜んでいる 2次的な誰もが思考停止している部分にこそスポットを当てたいのである
なぜならまだテレビもなかった時代に組み立てられた時代錯誤のガラクタだらけの社会規範の犠牲者をできるなら救いたいと思うからだ
それに現在の世の中確かにテクノロジーは目覚ましく進歩しているが 真の創造性という観点では時代遅れも甚だしいと思うのである
それはネット上の変化とか現在の最先端テクノロジーを言うのではない!リアルな空間において人間は本来まだまだ多様性があり一人一人多様な創造性があると言えるのではないだろうか?
以下にこの社会の2次的対立因子と沈黙の諸問題をあげる
・営業vs製造
・思考型vs自然感覚型
・理系型人間vs文系型
・夜勤
・地方過疎化の真実
・会社の勤務vs国・県・町の行事
・気にいった趣味や商品の存在の消失
・多摩川の浮浪者やネットカフェの住民
・サラリーマンと自営業者の常識の違い
まずは自分が最も閉ざされた弊害に思っていた営業と製造の確執から取り上げよう
代表的問題をあげれば まず”今日”でもそこら中にあったであろうことが想像できるのが、「会社における営業と業務、管理と生産」といえるだろう
とくに最も訴えたい部分は、工場などの生産に携わる工場の部長レベルと営業との葛藤だ、自分は過去たくさんの知人からこのやり切れなさの話しを聞いている
この問題は特に営業マンにとっては、実は、毎回会社を辞めるかどうかの決断までいくことがすごく多いということである
そう!もちろんこれは自分だけでないはずだ、もし男性なら自分自身あるいは友人知人などから、営業の誰それと口論した! あるいは製造部長の石頭の拘りで計画が狂ってしまった!と友人知人の営業マンから聞いたりしたことは、誰しもあるのではないだろうか?
自分の場合 過去の人生で営業社員として勤務して 最も多かったのがこれである こういうと取り方によっては、「それは営業の努力不足」と簡単にとられがちだが、自分は、この特に工場に多いと思われる 営業と製造の確執は、仕事が辛くなる最もでかい要因の1つではないだろうかと思うのである。製造業の営業経験者なら誰だって経験する最もでかい要因である!
自分は過去この確執で会社を辞めた人を何人も知っているし、また現在も!このての悩みを友人から3日に1度は聞かされる。
例えば、「社会は厳しい」 というのは常識的言葉だが この友人にとってのこの文句は そのほとんどがこの「営業と製造の確執」というのが現状といえる
営業の方をもつとか製造者の雇用を厳しくしろとか そんなレベルの話しでないことは最後まで読めばわかるだろう。
自分自身も営業として過去呆れ返るほどのバカバカしい出来事が多々あった 以下にそれをあげるとする
・食品産業系の工場に営業に行った時 そこの製造管理部の部長にアプローチするためにアポをとり現場に足を運び 名刺をみせたとき 「あんたらみたいなネクタイしめたカッコつけた人がさ こんなとこ何しにきたの・・・・・ まぁ真面目にやってもらっても自分らみたいなのは、ただ機械を動かすだけが仕事だからね~ 食って行ければいいというだけだからねぇ そんなねぇ かっこいいことには全然関心は無いんだよ」
といって、まるでネズミ男みたいな その製造部長は立ち去っていったことがあった 多分営業経験者ならこれと似た場面は経験しているはずである
・またある零細企業で機械の販売営業を担当していた時 その年配の技術者はまれにみる卑屈な性格で気分次第で、どんな案件もよせつけないといったような場面を何度も経験している 後にこの会社は倒産したが、半分はその人の卑屈さが招いたともいえる
・また笑ってしまったのは、過去2週間ほどしかいなかったが地元のある工場の朝の朝礼で 営業と製造部長がミーティングや報告をするのだが その時の会話がおもしろい
営業部長が現在の先月の売上を報告し、「今後の明るい展望が開けるかもしれないので益々・・・という部品を多く生産してほしい 我々も頑張ります」 というと
製造部長が 「さて今日の計画は回転寿司直行ですか?自分らだけ外で お遊びがてらに仕事とは 我々は奴隷じゃないんだからもうちょっと・・・・」
すると営業部長が 「おいおい いくらなんでも今のは聞き捨てならんぞ ・・・・・ 」 となり後は営業と製造の口論が続いたわけだ
とくにこの「自分達だけ外をお散歩で・・・」 という具合に外に出て行くことを羨ましく妬む工場労働者は最も多い
・笑ってしまうが 地方の工場とはおそらく今も似たりよったりではないだろうか?
最近でいえば、一度も会社の不平をいわなかった年配のまじめな工場委託業の知人がついに一言もらした言葉は 「業務の連中がロボットを入れて職を奪いあがった!」
必ず技術や製造というのは、上のようなすざまじい卑屈なまでの言葉を発するもので 実はこれは当たり前で なるべくしてそうなっているのである。
多分こういったことは コンプライアンスで徹底管理された都会の大手IT企業や名高い大手企業以外(IT業界はまた別の苦しみがある) 日常茶飯事みられる光景ではなかろうか?ここで我々日本人はとくに 家に帰宅するころには、「会社とはそんなもんだから仕方ない」 と自分をさとし 思考を停止して 後はせいぜい労働組合でうっぷんをはらすぐらいであろう。しかし自分はあえていいたい ここで思考をストップするな と! また労働組合などという仕掛けられた罠の中に入るのは言語同断である
この当たりでいっておくべきは、自分は何も共産党や社会党などという お決まりの甚だバカらしい芝居の猿マネをしたいわけではないのである 自分が見ているのは、そんな安っぽいことではなく もっともっと根源的なものである 最も根源にある思想は「結果論的継ぎ接ぎ(つぎはぎ)社会から真の創造主義社会へ」ということだ
しかし最初からこれは無理である まずは徹底した思い込みの排除から行う必要があるだろう
続きは 次回の「区分け主義」へ
